映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『彌勒 MIROKU』(2013)

プロと学生が共同で映画を企画・製作していく“北白川派映画芸術運動”を展開する京都造形芸術大学・映画学科の学生と林海象が協力して完成させた映画。併映の『乙女の祈り』という『日々の泡』にオマージュしたような短編モノクロ映画と合わせると3部作を構成するようだ。第1部「真鍮の砲弾」でエミルは女優だ。エミルの同級生たちのIもNもFもその他もすべて女優だ。少年愛の美学の作者の自伝的な小説を映画化するのに女優で良いのかという疑問は残る。さらには、モノクロ画面でノスタルジックな味の独特な画面を造形する林海象だけに、この写真には色彩が欠けている。というか乏しい。ガラス窓の気泡に入り込む光が反射しておりなす「スペクトラム」が見せる色彩、弥勒像の周りをとびかう電子線(?)の明るい色合い、その2点で突如、色彩がはじけて急に印象を深くする。敢えてそうしたのか。音楽は対照的に全編で鮮烈だ。音楽だけでなく、大人エミルの永瀬が飲む酒のグラスを卓に置く音、グラスにビンから酒をつぐときの音、酒をこぼす音、など音響が鮮明に鳴り響く。


とはいえ、
p238「日本紙のひとたばね」に「赤と青の液を塗る」


同頁「宵闇の街かどの向こうに、柘榴のような赤と、ちょっと譬えようのない透き徹った青緑色のシグナル」


同頁「両頬に赤い丸を描いた孔雀のような女」


p243「媾曳(ランデブー)の赤い靴下だの、真珠のように輝いた太陽だの、仏蘭西の春の平野を舞い上る裏と表を赤と青に塗り分けた単葉飛行機だの、鯖色の半月」


このように色彩であふれているのが肋膜を患った上級生Iが見た「六月の夜の都会の空」ではなかったか。


そもそも忠実に再現したように見える「紙切細工のような都会の夜景」ですら白黒のままではやはり物足りない気がした。


p266「彼の部屋の窓硝子には、注意すると無数の細かな気泡がはいっていた。その中の一つだけ、スペクトラムの作用をする泡があった。それは視線の角度を変えるたびに、こんな美しい色彩が地上に在ったかと思える程な、豪華な赤色や、透き徹った青緑色や取りわけ彼の大好きな、得も云えぬ高踏的なヴィオレットに変化した。」これは断食を続けているのに加え極度の近眼のくせにメガネも失っている主人公の意識に出現するトリップであって、『2001年宇宙の旅』の光のシャワーに先行するイメージだ。これを佐野史郎(Fだろうか?)に見せるのはどうかしていると思う。

「目が覚めると全天が柘榴の実でおおわれていた。薄紫の果粒を透して光が地上に降り注ぐさまは何とも言われない。無数の柘榴のひとつひとつが、おそらくその背後にそれぞれ鉱物質の円光を負っているにちがいない。」これは谷川俊太郎の『空』

 

とにかくポップな色彩感覚にあふれたこの原作を映画化するのは、スタンリー・キューブリックでなければならなかった。もはや故人でありかなわぬというなら大林宣彦が作るべきであった。大林が日本のキューブリックだという意味ではさらさらないのだが。

ゴールデンスランバー(2009)

キル夫(三浦くん)は原作にも登場する。濱田岳よりもっとスマートだが(だと思う)。定禅寺通りで首相凱旋パレードが行われてそこで暗殺されるというのは、原作と違う。教科書倉庫ビルは定禅寺通りではなく、東二番丁通り近くにある。旧電力ビルのナナメ向かい側だ。伊坂は実際の仙台の通りにある実際の倉庫ビルを小説でとりあげた。爆発した森田のワーゲン(原作通りではないと思う)は、原作に従えば東二番丁と交差する広瀬通に止めてあったと思う。そこから裏通りに入って仙台駅の方向に逃げたんだと思う。映画は、森田のワーゲンがその車種、原作通りではないと思うが、後で本ひっくり返して確かめても良いが、どうでもいいか。とにかく定禅寺通りの裏側にワーゲンがあってそこから青柳の堺が逃げるのは原作と違う。また、原作でも連続通り魔殺人の犯人キル夫は確かに登場し、青柳を偶然に(?)助ける。プロデューサーの矢島の放送局は原作じゃ特定してないけど、映画はナマイキTVやってるKHBになってる。面白いね。原作だとキル夫事件捜索のために新型の監視装置が仙台市内いたるところに設置されている。仙台が1984年頃の近未来都市っぽく設定されている。そういう背景が前提にあって首相暗殺のオズワルド化にリアリティを与えたが、映画はそういう七面倒な設定をとっぱずしてしまった。ほかにも大分端折ってるところがあるが、例えば雅春が痴漢をする、してないのにしたと決めつけられる(これも罠、オズワルド化の前哨戦的に)こととか、だが一番大きのはここ、1084年化もっしくは未来世紀ブラジル化、だ。これがないと下水道からの逃亡作戦時に必要な大事な助っ人がひとり欠けるのだが、いいんだろうか。カローラのCMソングは、あんな歌ほんとにあったのだろうか。伊坂はどんな歌詞か教えてくれなかったが。仙台に腕の良い整形外科がいるのは本当だ。依田先生という。しかし、この原作の整形医のモデルということじゃなかろう。立ち小便してて警官にライトで照らされてつかまれる。だが、大外刈でころばして黄色の車の中に縛り上げる。児島さんだ。小島さんは雅春の見方になってくれる。原作にも小島さんはでてくるけど、それはマンションの一室で雅春を見張っている警官だ。そのマンションの部屋というは、宅配配達員だった雅春がよく荷物を届けていたところで、いつも長旅に出ていて留守にしている、でもって鍵の場所まで知っているという設定だ。雅春は一時ここに潜伏している。映画は、キル夫が案内するアパートの部屋をそんな設定に当てていた。ソニンがなつかしい。そういえば、映画じゃ雅春が宅配会社を辞めていることはいってなかった気がする。あ、でも報道の中に元宅配配達員とはいっていたんかも知れぬ。青柳が元同僚の岩崎英二郎を盾にして囲まれた警官隊から逃れるシーンがある。原作では八乙女駅前だったが、KHBのニュースはカモ団地にしていた。実は原作通りだと見通しが良すぎてたぶん逃げにくいと思う。伊坂は駅前からすぐに団地に入り込んで逃げると書いているが、たぶん実際の八乙女駅だと無理だ。だからカモ団地にした映画の方が正しい。

 

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『ハイ-ライズ』J・G・バラード

ドクター・ロバート・ラング
医師、教師、25階に住む。姉が同じマンションに住んでる。独身、離婚歴有り。中流階級代表。姉と女優のエリナ・パウエルの二人の女性の保護者然とした存在にラストは収まる。溺れ死した犬がプールに浮いていたときにその死骸を引き上げる。

リチャード・ワイルダー
テレビ・プロデューサー、下層階の庶民代表。シャーロット・メルヴィルという寡婦の部屋でラングと出くわす。プールで犬を溺れ死させたのはこいつだ。下層対上層の戦いが始まったときに最上階に登頂することに執着し、そこでアンソニー・ロイヤルと出くわして対決となる。2階に住むが、マンションのドキュメンタリー映像を撮影するためにフルチンでマンション内部をうろつき回る。

アンソニー・ロイヤル
マンションの設計者。自ら妻と35階に住む。マンションが荒れ果てて、上層対下層の争いが本格化すると妻とともにマンションを出ていこうとするが、出られずとどまることになる。

こんな物語が映画化される。
監督はデヴィッド・クローネンバーグではない。

『恐るべき子供たち』(1950)LES ENFANTS TERRIBLES

鏡は不吉さの契機。

「鏡が彼女の心を掻き乱した。エリザベートは眼を伏せて、薄気味の悪い手を洗った。」

このマクベス夫人のような冷徹な仕草は、もちろん映画でも表現される。

コクトーがオマージュした『ポールとヴィルジニー』は無辜な男女が世俗の汚れに侵されて死んでいく物語だ。

フランス島という隔離された自然の大地で純粋に育まれた魂がやがて運命の悲劇を迎える。

ジャン・コクトーはポールとエリザベスにもっと残酷な運命を与えるのだ。

ポールとヴィルジニーと違いふたりは孤児だ。

世間から隔離された蚕の繭の中のような部屋でののしりあい傷つけあうのだ。

ポールの同級生ダルジュロスはもっと冷酷で悪の権化のようだ。

雪球を投げ合う雪合戦のイメージではなく、雪を掴んで撒き散らしあいをする。

その中で石詰め雪球を確実に狙い撃ちするのが、ダルジュロスだ。

狙われるのはポール。

その日から、ダルジュロスもポールを学校を遠ざかっていく。

偶然にもダルジュロスと酷似するために一緒に住むようになるのが、アガート。

エリザベスが一念発起して働いて稼ぐためにマネキンになるが、アガートはマネキン仲間であり、しかも孤児なのだ。「コカイン中毒の夫婦のあいだにできた娘だった。」

気性のやさしい友人のジュラールも参加する。

ベスは結婚するが、ミカエルは自動車事故で死んでしまう。

映画ではひとつだけ残った車輪が回り続けている。まるで『激突!』と正反対ではないか!

しかし原作のミカエルはマフラーがきつくからまって窒息死するのだ。

ミカエルは金持ちで、エトワール広場の邸宅をエリザベスたちに遺したのだ。

そこから四人のサンクチュアリ物語がはじまる。

アパートからすこしづつ身の回り品が集められ、ガラクタに囲まれたような状態でポールは寝床の中で過ごす。

その中でポールは我を失い、アガートに恋文を出す。だが、受け取るのは自分だ。

そのためにベスはポールのこころを知ってしまい、そしてまんまとアガートをジュラールと結びつけてしまう。

ベスは自分の罪に耐えられなくなったものか、ラストはピストル自殺という衝撃的な終わりを迎える。

原作のようなダルジュロスの毒玉といったものは出てこない。

 

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『カラスの親指』(2012)

まず原作について、読書メーター

 

 
「カラスの親指」メイキング&インタビュー集 - YouTube

最初に競馬場でサンタマリアをだます詐欺、ここが原作と違う。

原作だと銀行での詐欺だ。

流れはほぼほぼ同じだが、ディテールが違っている。というか省いてしまっている。

2時間20分に原作のすべて詰め込むのは無理な話だ。

村上ショージの入川が阿部寛の武ちゃんと出会う鍵屋のドア修理のエピソードがない。

原作がそもそもホームドラマめいたゆるい雰囲気に満ち満ちており、それとヤミ金組織と対決するコンゲームの後半との緊張感の対象があるんだが、映画はコンゲームの緊張感も省いてしまった。

ヤミ金をだまして大金せしめるときにやひろまひろの入れ替えトリックを使うわけだが、映画はわかりにくい。

トリックを緻密に描くのではなく人間ドラマにしてしまったのだ。

鶴見辰吾の演技はすごみがあっていいけど、あっさり騙されすぎて拍子抜けだ。

さいごにすべて○○の仕組んだことだと判明するけど、原作がそうなっているので付け足したのかと思えるぐらいあっさりしてしている。

そこから振り返るとまひろがクレープ背広にくっつけて財布スルのを目撃して、それを庇うことで村上ショージ阿部寛と出来上がる関係、それもまた○○の演出というにはなんか無理を感じるのだ。都合良すぎではと思えてくる。

村上ショージヤミ金事務所に盗聴器捜査で踏み込んで、携帯電話に仕掛けられてると指摘するところはいいけど、「あと四台もすべてです」というセリフはやばい気がする。

プリペイド携帯が合計九台というのはどこで知ったのだろうか?

ヤミ金の兄ちゃんに指摘されたらどうするのか?

そこじゃなくて、能年玲奈が若すぎるという間抜けな指摘がはいって、あまちゃん娘がうまく切り抜けるんだけど、まさか本当の娘だったとは!? というのが落ちであった。

能年玲奈はなにかの新人賞をこの映画で獲得しているが、それは納得できるレベルだ。

石原さとみの方がクレジットでは先に出てるし役者としても先輩だけど、むしろ能年を引き立てるような演技でこれもまた好感が持てる。原作だとやひろはあまり存在感がないが、石原はそれにリアルな存在感を与えた。

小柳友の寛太郎は、原作だと奇術師である。時計職人ではなく。原作通りの方が本当はコンゲームに花を添えられると思うのだけど。村上ショージの地元が仙台だという設定、これも原作になかったんじゃないかな。

 

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「プリンセス・トヨトミ」

万城目学原作

 p389文春文庫

 円の中央に浮かぶひょうたんの図柄を、竹中は驚きと懐かしさとともに迎えた。それは三十五年ぶりに見る風景だった」

  

はじめに大阪城が赤く染まる。

次に要所要所にひょうたんが置かれる。

 

p391

「長浜ビルにひょうたんを見たとき、黒田の碁盤の上にひょうたんを置く」

「碁盤の上にひょうたんを見たとき、『場所』にそのひょうたんを置く」

 幼なじみ二人は、立派に彼らの役割を果たしたわけだ。

 

「場所」というのはいろいろあって、

 

p394

速水にとっての「場所」とは、この渡し船である。

 

ひょうたんの大発生から事件ははじまる。それまでは準備段階だったといえる。つまり580ページあるうちの約3分の2程が準備作業だったわけだ。

それから数字だ。「16」。

これらは合図だ。35年前に発生した戦争を再度行うという宣戦布告というようなものだ。

大阪国対会計検査院で、35年前には会計検査院の負け。

合図は、5月31日16時に、大阪が全停止するという予告であった。

35年前とは松平検査官が4歳の時だった。

その時、赤く染まった大阪城を松平は偶然目撃したのだ。

 

菊池桃子には悪いが戦国時代のシーンは不要だったと思う。見どころは人っ子ひとりいなくなった大阪の街なかをカラスの鳴き声聞きながら綾瀬が豊満な乳房ゆすりながら走り回るところ。

原作との違いは大きい。

ただ大筋の流れは踏まえている。ディテールを変えながらも本質をつかんだ作り方だ。

まず、松平がアイス好き。しかしモナカアイスは映画には一度も出てこない。

鳥居は決してたこ焼きを地面に落とさない。どころか、原作ではたこ焼き食べるシーンすらない。せいぜいお好み焼き。

総理大臣の息子が女装趣味というのは何を暗示するのか知らないが、男勝りの茶子も原作そのまま。

チビデブの独身中年、鳥居が綾瀬にすりかえられ、ゲーンズブールも原作だとこっちが長身金髪のフランス人ハーフ女性なのだが、設定そのまま、名前そのままで岡田将生が演るというのは、原作しらないと分かりにくいのではと思えた。この岡田、映画中では出番も少なく存在感的に必要性薄弱とも思えたが、大阪国にもともと深く関わって擁護、独立をたくらむ人物の顔を大詰めになってようやく垣間見せる。とってつけた感もなきにしもあらずだし、フランス人ハーフの意味も別にないのだが。

ただ、大阪国のあり方については原作の方がそもそもぼんやりしていて説得力に欠けるうらみがある。大阪人が内に秘めた野望を受け継いでいる秘密結社集団が大阪国なわけだが、大阪人というのはこういう隠し事できる性格じゃないのじゃないかという仮説が原作の大阪国を現実味ないものにしちゃっているのだ。

映画での岡田の大詰めでの活躍(それもあんまりパッとしないのだけど)はそんな原作の薄弱なところを埋めるものだった。

 

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『組織』(1973)

原作者の脚本でよくできた例外の作品。まさにこれ。

原作だと組織のいろんな拠点に襲いかかるのが、パーカーの知り合いの犯罪者たちとなっている。映画はパーカーではなく、アール・マクリンと名を変えている。ウェストレイクが許さなかったからだ。ウェストレイク自身、リチャード・スタークと名を変えている。

原作は、「人狩り」→「逃亡の顔」→「組織」→「弔いの像」と連続したストーリーを背景としたシリーズものだ。主人公悪党パーカー対組織(アウトフィット)という一連のストーリーが。

その中から前後を無視する形で『組織』のところだけ取り出して脚本にしているので、前後の切り口をならす必要があって、そこが映画のオリジナルとなっている。

パーカーではなくマクリンだけ主人公がそもそも違う。パーカーは禿じゃない。

組織の銀行の襲ってしまったために報復として殺し屋がやってくる。そんなところから映画ははじまる。まずマクリンの兄が殺された。相棒のコディ(ドン・ベイカー)の店にもやってくるが運良く逃れた。そしてマクリンは、返り討ちにする。

パーカーが女といてアウトフィットが雇った殺し屋に襲われるのは同じだ。一緒にいるエリザベス・ハーローは、映画でカレン・ブラックが演じたマクリンの情婦の名も同じだが、小説のハーローはパーカーのピストルを持ってその場から疾走してしまう。

そのピストルが次作『弔いの像』につながる布石になるのだが、映画のカレン・ブラックは終始マクリンにつきまとい、組織を攻撃する時にも行動を共にしてドライバーの役割をする。どちらかというと悪党パーカーシリーズ第1作『人狩り』に出てくるパーカーの妻

に近い。一度はマクリンを裏切るが刑務所を出てくしたると出迎えて借りていたキャビンに案内する。そこに殺し屋がやってくるのだ。マクリンは殺そうとするが、ベスが命乞いして助けてやる。そもそもベスがキャビンの手配してもらったつての先から居場所がもれて殺し屋がやってきたのだ。

殺し屋の自白で依頼主を調べ、かれらがポーカーをしているところを襲いにいくのは、原作通り。それから飲み屋を経営する組織の一角を攻撃しにいくところも同じだ。この時点でマクリンは相棒コディとベスと行動を共にするが、原作では一人だ。

一匹狼のパーカーに家族など居るはずもないが、マクリンには兄が有り、一緒に銀行を襲って組織に殺される。

その報復でマクリンは動き出す。

コディは原作のハンディ・マッケイに当たるのだと思う。

組織の親玉の居場所を突き止めたマクリンたちがラストでボス宅に討ち入りに向かう。まさにヤクザ映画のラストと同じだ。

ベスが流れ弾で殺されたその復讐の意味もある。

コディが撃たれて、助けながらの脱出劇は、まるで『羊たちの沈黙』だ。または『レノン』。

 

  

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