映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『野火』(1959)

とにかく主人公・田村は生き残る。
昭和45年2月のフィリピン島。終戦の半年前だ。
飢えた敗残兵の群れが泥の河をわたって向こう岸の草原を匍匐前進する。カメラは目の前の林に向かっていく。まっすぐの木立がキレイに並んで奥が暗闇になっている。
その暗闇の間からいくつもの光がいくつも見えてくる。
これは、原作だと「二五光」の章にあたる。
「途端に前から光が来た。」
映画はこの原作の言葉を忠実に映像化していると思える。
この時、田村は裸足だ。軍靴はボロボロになったので途中で脱ぎ捨ててきた。
市川崑は、水が流れるほどに雨が続く山道に投げ出された一足の靴をまず描写する。
ひとりの兵隊が穴の空いた靴を脱いで履き替えていく。これは田村ではない。
その脱ぎ捨てられた靴を、さらに底のなくなるまで履き尽くした兵隊が取り替えていく。まだ、田村ではない。
田村の靴は足の先がすっかりはみ出している。田村=船越は、底のない靴をひろって双眼鏡を覗くように靴底を眺める。左右両方を見て、どちらも底がないことが分かると自分の靴もそこに脱ぎ捨てて裸足で歩き去るのだ。
原作では、
p114
「…濡れた靴と地下足袋はどんどん破れて、道端に脱ぎ棄てられた。しかし『履けない』という判断は人によって異なるとみえ、それら脱ぎ捨てた靴を拾って穿き、次に棄てられた靴を見出すと穿き替え、、そうして穿き継いで行く者もあった。/私が原註地以来穿いていた靴は、山中の畠を出た時既に、底に割れ目が入っていたが、或る日完全に前後が分離した。私は裸足になった。」
となっている。
「地球が回ってるんだよ。だから太陽が沈むんだよ」
と狂人の浜村純は原作と同じ言葉をつぶやく。
その時、田村は一人であるいていた。なぜなら目の前で死んだ男があり、その男の靴を剥ぎとって穿くことができたからだ。
田村の歩く後ろ姿。雲がたなびく青空の光景。それが丘の上に一本だけ高く生えている裸木に上半身を預けて座る浜村の映像に切り替わる。そこに田村はやってくる。
狂人は泥を食らう。口元が泥で汚れて真っ黒になる。
原作では精神病院に入院した主人公の回想という結末になっているが、市川崑はそうしなかった。
ひとりになった田村(田村はこのドラマの中で何度もひとりになる)が野火に向かって歩いて行き、力尽きて地面に横たわるところで終わりだ。
原作に従うなら、そこで気絶した田村を米軍が病院に運びこむのだ。
映画の田村は安田を食った松永を撃つ。
松永の口の周りは安田の血で染まっている。モノクロ作品なので一見真っ黒に見える。だから泥を食った狂人の顔と重なってくる。
しかし原作ではそれが分からない、記憶から消えているという設定になっている。
原作の田村は慥かに人肉を食っている。
安永の差し出す干し肉を噛み締め食った。猿の肉として食ったから人肉という意識はなかったかもしれないが、それは後でわかってくる。
映画の田村はその肉を吐き出す。歯がダメになって噛めないからだ。
田村ははっきりと人肉食をしない、カニバリズム拒否について旗幟鮮明としている。
しかしこれで原作のテーマを歪めるものではなく、むしろ強調するものだったと思う。
あえて原作どおりに作らないことで原作のテーマを浮き彫りにすることが映像表現ではあり得るということだ。

 

上映時間 105分
製作国 日本
公開情報 劇場公開(大映)
初公開年月 1959/11/03
監督: 市川崑
製作: 永田雅一
企画: 藤井浩明
原作: 大岡昇平
脚本: 和田夏十
撮影: 小林節
美術: 柴田篤二
編集: 中静達治
音楽: 芥川也寸志
特殊撮影: 的場徹
助監督: 弓削太郎
出演: 船越英二 田村
ミッキー・カーティス 永松
滝沢修 安田

 

 

『ストレイヤーズ・クロニクル』(2015)

最近、豊原功補の活躍ぶりが目立つ。テレビドラマの『マザー・ゲーム』とか面白くない映画だった『新宿スワン』など脇をしっかり固める類のいい役者だ。

ストレイヤーズクロニクル


本作では元エリート自衛官で、自前で民間警備会社を経営し、悪徳政治家渡瀬を護衛する役割。ストレイヤーズとは敵対する立場だが、最後に昴に声かけられて命を救われる。ロケットに3歳の娘の写真があって、倒れた時にそれが開いて見えたのだ。そのペンダントを首にかけてあげたのが、静。心やさしき超能力者たちというわけだ。原作にこんなエピソードはない。


原作の人物構成やらドラマ的な設定を踏まえつつ、ディテールにはかなり手をいれた脚本となった。
それは仕方あるまい。原作はそもそも冗長にすぎるところがある。刈り込むことは必須だ。


で、豊原功補だが、これは原作だと複数の人物を束ねた造形となった。巨大シェルターを守る選抜の自衛官(ここじゃ安保法案など完無視だ。)たちがアゲハとの戦いで全滅した中にひとりだけ死体の山に隠れていた平隊員があってそれに昴が声かけて家族のところに帰るようにうながす。この人物と渡瀬のボディガード役を綯い交ぜにした。でも原作の伊坂は渡瀬より昴側につくのだが。


映画のはじめにふたつの超能力者チームがどうして誕生したか、両者の違いを説明する。幼少時の頃を描くのだが、これは原作にはない。原作では昴たちのこと、アゲハたちのことの出自の説明は詳しくない。アゲハたちに生殖能力がないと説明はあるものの碧だけ子供が産めるなんてことは書いていなかった。


その碧が未来の希望であること、そしてそれを黒島結菜が演じたことはまことに喜ばしい。


その伏線ともいえるマンションの隣の大学生とのエピソードは重要だ。ゲスの極みがここで炸裂する。歌詞入り音楽が場面にかぶるこの演出が本作通じて唯一瀬々らしさがだせたところなのじゃないか。
隣の大学生が碧に気が合ってそれを静とモモがからかうところ、原作でもそうだ。
けど原作でのふたりのからみはもっと血みどろなものだ。『モールス』を連想させるような吸血鬼と人間の少年との出会いだ。トンネルで碧が痴漢に襲われそこに大学生が通りかかる。碧は自分が攻撃用の武器を持たないことを気にしていて、服の袖に仕込む鋭利な鋼鉄の板をヒデと隆二からもらっていた。


痴漢をその武器で試し切りして殺すと、大学生は殺したと勘違いする。警察に行こうとするのを碧は止める。その日から1周間、碧は大学生の部屋に寝泊まりするのだ。そこで肉体関係になるのではないが。
トンネルで血が付いたタオルを碧は洗って返すと約束する。
その約束を果たすのは昴である。昴が大学生の部屋を訪ねて碧から預かったタオルを返すのだ。


でも映画のラストは就活中の大学生と碧との再会に置き換えられた。むろん、通りがかかっただけの会話であり、そこから関係が生じるかどうかはわからない。もし『ストレイヤーズ・クロニクル2』があるなら碧と大学生の間に子供が10人産まれて、大きくなって超能力者となって争いあうというストーリーだろう。


原作の学は、染谷よりもっとずっと子供だ。車椅子には乗っている。映画のように燃やされることはなく、世界はパンデミックを静かに待ちながら幕を閉じる。
でも『感染列島』で日本消失まで追い込んだ瀬々監督はそこまで描く必要がなかった。

『華氏451』(1966)

現実の社会を撮影して未来世界を描いた映画といえば、『惑星ソラリス』『アルファヴィル』そしてこれ『華氏451』がベスト3だ。


原作で出てくるファンタジックな魅力いっぱいのたんぽぽ少女クラリスは登場しない。モンターグの隣人は登場して、当局に目をつけられている存在なのだが、モンターグと親しくなるのは女教師だ。まだ若いけど子供ではない。


それにクラリスはすぐにいなくなってしまう。バニー・レークよろしく行方不明になる。どうも政府に殺されたっぽい。真実はわからないのだが。そこが不気味なのだが、ショートカットの似合う女教師は同居している叔父の機転で首尾よく屋根から逃げ出すことができた。


そして、「書物人間」の森に追われたモンターグと合流することになる。
原作だとこの「書物人間」コミューンは男だけの世界だった。
トリュフォーワールドでは老若男女あり、日本人までいるのだ。女教師が暗唱している本が何かわからない。フランス語の書物のようだ。日本人が日本語で暗誦する本もほんのふたことみことだけなので確認できなかった。川端かなんかだろうか。
暗記書物には『火星年代記』も登場する。

 

ちなみに燃やされる本の中に『勝手にしやがれ』がある。

 

モンターグが原作で記憶しているのは聖書なのだが、映画ではポーの怪奇小説集。そういえば『高慢と偏見』はふたごの中年男が役割でなんとなくハンプティー・ダンプティーに似ている。でも『不思議の国のアリス』にはまた別の人が役割を担っているの。
聖書はすでに頭の中に収めてやってくるのが原作のモンターグだけど、映画ではモンターグひとりだけ書物を開いて暗記に余念がない。燃やすためだ。
壁テレビといういまの液晶大型画面テレビジョンを予言する家庭内の機器が登場するが、映画作家トリュフォーはテレビ文化に我慢がならないとばかりに液晶画面を引き裂いてぶちこわしてしまう。


そういう電波文化(?)と活字文化の葛藤を管理社会の恐怖として描いているのだけど、正直いってそのあたりはゴダールアルファヴィル』がずっと良く描いている。
今回この2作を比べて見ることができて興味深い経験ができた。
小説の冒頭は「火を燃やすのは愉しかった」で始まるように、昇火士による禁制書物の焚書シーンからはじまる。伊藤典夫による新訳だ。すっきりしてそれでいて詩的なあじわいもかもしている良い翻訳だ。
でも映画は家々に立っているテレビのアンテナを短いカットで次々に映し出すのだ。女教師の家にはそれがないために政府からの映像メッセージを拒否している家であることがわかるのだけど、いまどき枝状のテレビアンテナ見ても古臭いだけなので、スタートからだいぶチープな印象に見えてしまうことは否めない。
山田宏一の字幕でファイヤーマンを消防士としていてしまっているのが、ちょっと残念だった。

凶悪(2013)

上映時間 128分

監督: 白石和彌
原作: 新潮45編集部 『凶悪―ある死刑囚の告白―』(新潮文庫刊)
脚本: 高橋泉 白石和彌
撮影: 今井孝博
美術: 今村力
衣裳: 小里幸子
編集: 加藤ひとみ
音楽: 安川午朗
出演: 山田孝之 ピエール瀧 リリー・フランキー 木村孝雄 池脇千鶴 白川和子 吉村実子
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話題作だったが、映画館で見逃していて、それでよかったと安堵した。正解。シナリオが酷すぎる。基本的な展開がほぼなっていないのだ。木村の無人の事務所の窓のほこりを山田が拭うと回想シーンになって室内で木村が首絞めやっているとか、最低だ。取材に苦労する山田が空見上げると薄曇りに枯れ木が枝を張っているという空にパンするカメラなんだが、思わせぶりしておいて何も起きないという不可解なシーンも多い。山田は主役だが、ドラマとしてはいなくても成り立つ。ただの狂言回しでよかった筈なのに、池脇という芸達者を女房にして認知症の母親がいて家庭的に問題があるみたいな余計な味付けをしてしまった。記者としての事件への関わり方が通り一遍にしか描かれない。取材のプロセスによって真実が見えてくるというような描かれ方がまるでないのだ。その点、CXでやってた「連続企業爆破テロ 40年目の真実」はジャーナリズムが特ダネを掴むまでの緊張感を見事に再現したドキュメントが鋭かった。記者が死体を埋めた現場に行って泥の穴掘するシーン、原作にはないが山田はなにも見つけることができない。骨片一つも。ピエール・リリーという日本人なのに外国人的な名前を持つへんてこな役者コンビが頑張っていい演技してても映画的には完全なる失敗作だった。

 

『PARKER/パーカー』(2013)

ストーリーは原作『地獄の分け前』のプロットをかなり忠実に踏まえている。

クレアに父親(ニック・ノルティ)がいるところは違っているが、おかげでジェイソン・ステイサムがパーカーというよりも『エクスペンダブルズ』のクリスマスに見えてきた。ニック・ノルティがいるのは、パーカーの仕事仲間斡旋のためだ。原作では昔からの付き合いで信頼もある連絡係で別に家族的な関係ではない。

もうひとつ映画は『地獄の分け前』にプラスして『人狩り』『犯罪組織』といった初期パーカーのプロットも合成している。

ダンジンガーがボスのマフィアが今度の強盗チームと関係していたのだ。
はじめは一匹狼の集まりかと思っていたのが実はバックがあったというところだ。
このチームの次のターゲットであるパームビーチの宝石オークションの宝石の引取先に当てられている。原作には欠けているところだ。
一味のひとりで若造のハードウィックはダンジンガーの甥という設定。
原作と一番違うのは、パーカーが2度大怪我をするところだ。
一味が宝石強盗の話を向けた時にパーカーは拒否して処分しようと逃亡中の車の中で撃ちあいとなるわけだが、原作ではここは円満に別れる。
その後パーカーが小さい現金強盗を繰り返しながら名前を替えてパームビーチに乗り込む流れは一緒だ。無論そこにレスリーもいる。ジェニファー・ロペスが。
映画でも原作でもプロ中のプロと素人女が組むところがこのアクション劇の眼目である。

パーカーを付け狙う殺し屋は一味のリーダーであるメランダーが、ダンジンガーに雇ってもらうのだが、小説のはもっと謎めいていて偽パスポートを受け取るときに偶然居合わせて殺し合いになる麻薬王の手先だ。
原作では殺し屋の車にはねられ正体不明のけが人として病院にかつぎこまれる。
そこからレスリーが隠密に連れ出すところ、映画では描かれなかったのは残念だった。相当に緊張感あるシーンになっただろうに。

だから映画にはレスリーの妹は画面に出てこない。
そのかわり、大怪我のパーカーがレスリー家に逃げ込んだところにクレアがやってきて看護師としてパーカーの怪我の手当をする。

ラストのダンジンガーを仕留めにくるパーカーも、郵便で分け前を受け取るレスリーも、原作にはないところだ。

悪党パーカー

『メイド・イン・USA』(1967)

ホレス・マッコイ『明日に別れの口吻を』をアンナ・カリーナが滞在しているホテルのベッド上で読んでる。

後には別の人物、男が同じ本を読んでいるシーンが出てくるが、『悪党パーカー/死者の遺産』を原作としつつなんということか?

なぜジェームス・キャグニー主演映画の原作が読まれなければならないのか?

しかもパーカーは女なのだ。

アンナなのだ。

死んだ昔の仲間のことを探りにやってきた悪党がパーカーであり、アンナ・カリーナなのだ。

だが、映画の中でアンナの役割はなんだかはっきりしない。

殺し屋なのか、ジャーナリストなのか、革命家なのか。

少なくともそういう類の知り合いはいそうだ。現地にいる医師から死んだ男、殺された男リシャールの検死の模様をさぐったり、現地の刑事とつるんで犯人を探したり、どうもその事件に関わりのあるらしい若い男ドナルド(ジャン=ピエール・レオ)がまとわりついてくるのを害虫よろしく処分したりを動き回る。パーカーが動きまわるのは、自分の身を守るためだった。昔の仲間が殺されたのかどうかもよくわからいまま、パーカーは動き出す。

ところが、映画では男は暗殺されたのであり、なんと殺された男リシャール・ポ・・・は、ポーラすなわちアンナ・カリーナの恋人というではないか。

泊まっているホテルに敵がやってきて格闘になる。これは悪党パーカーシリーズのよくあるオープニングだ。『犯罪組織』でも『弔いの像』でも『汚れた七人』でもそうだった。

やはり『死者の遺産』も例外じゃない。

だから、ポーラの部屋にチビのヤクザが現れる。ポーラは靴を選ぶフリして殴り殺してしまうのだ。まさかパーカーに劣らぬ荒っぽさだ。パーカーでもこんなことはしないぞ。ホテルにやってきたのはティフタスというケチな錠破りだ。ちなみにリシャール・ポ・・・は原作だとシアー、舞台はサガモアだ。ゴダールはこれをアトランティック・シティーに移しているが、セリフはフランス語だ。役者もフランス人ばかり。と思いきや日本人もひとりでている。歌をうたう。ポーラのとなりの部屋にいる作家の妻だ。

作家は未完の小説をタイプで打ち続けている。やがて小説の完成とともにこの世を去る。マリアンヌ・フェイスフルの可憐な美少女ぶりにもびっくりだ。パンクロッカーの面影とは程遠い。

オーソン・ウェルズの オセロ(1952)

THE TRAGEDY OF OTHELLO: THE MOOR OF VENICE
上映時間 94分
製作国 モロッコ
監督: オーソン・ウェルズ
製作: オーソン・ウェルズ
脚本: オーソン・ウェルズ
撮影: アンキーゼ・ブリッツィ G・R・アルド ジョージ・ファント
音楽: アンジェロ・フランチェスコ・ラヴァニーノ
アルベルト・バルベリス
出演: オーソン・ウェルズ  マイケル・マクラマー  ロバート・クート  シュザンヌ・クルーティエ
フェイ・コンプトン  ドリス・ダウリング  マイケル・ローレンス

 

p95
名声なんて、他人が押し付けてくる愚にもつかないまがい物だ、これといった業績がなくてももらえるし、身に覚えがなくても奪われる。
字幕だと「名誉」となっている。
映画は葬列からはじまる。黒く顔の塗ったオーソン・ウェルズのオセロの死に顔がアップで映るとカメラが引いて城塞の上をすすむ葬儀の列。運ばれる棺はやがてふたつになり、デズデモーナが横たわる。横に動く葬列に対して垂直に運動する檻が吊るされて登っていく。囚われたイヤゴーだ。こうして3者を運命を対象させながら物語ははじまる。
まずナレーションでオセロとデズデモーナのなれそめが紹介されて、オセロが公爵やデズデモーナの父ブラバンショーたちの前で自分の魔術について説明する場面だ。オーソン・ウェルズが弁舌をみせつける。魔術とはどうやってデズデモーナ心を奪ったかのいきさつだ。
キプロス島でトルコ軍をたたきのめすシーンは、荒ぶる海岸の描写で示される。遅れて到着したオセロはただちに勝利の無礼講を命じるのだ。

p121
こいつは緑色の目をした化け物です
p156
嫉妬というのは、ひとりで種をはらんでひとりで生まれる化け物です
映画は、ブラバンショーがオセロに対して不信を持っていること、イヤゴーがオセロに恨みを持っていることが原作以上に強調される。
キャシオーの軽薄に乗じて「名誉」をうばうところからイヤゴーの陰謀ははじまる。
街中がお祭り騒ぎにうかれるなかで酒に溺れた末の刃傷沙汰。オセロはキャシオーを罷免する。
イヤゴーはデズデモーナに相談しろとアドバイスする。一方でオセロにはキャシオーとデズデモーナの中が疑わしいと吹き込む。
用意周到である。

p221
これほど愛らしくこれほど致命的な女はいない。泣けてくる。
オセロは死ぬ。ナイフを自らの身体に突き刺し。
その前にデズデモーナの首を締めている。ベッドの上で。ベッドから転がり落ちたデズデモーナは今わの際にまで貞節を示す。
全てを知ったオセロは自らの運命をすべてつつみかくさず公表せよと遺言し、デズデモーナを抱えて倒れる。
オーソン・ウェルズの映像マジックもここで幕を閉じる。

 

松岡和子訳ちくま文庫