映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『華氏451』(1966)

現実の社会を撮影して未来世界を描いた映画といえば、『惑星ソラリス』『アルファヴィル』そしてこれ『華氏451』がベスト3だ。


原作で出てくるファンタジックな魅力いっぱいのたんぽぽ少女クラリスは登場しない。モンターグの隣人は登場して、当局に目をつけられている存在なのだが、モンターグと親しくなるのは女教師だ。まだ若いけど子供ではない。


それにクラリスはすぐにいなくなってしまう。バニー・レークよろしく行方不明になる。どうも政府に殺されたっぽい。真実はわからないのだが。そこが不気味なのだが、ショートカットの似合う女教師は同居している叔父の機転で首尾よく屋根から逃げ出すことができた。


そして、「書物人間」の森に追われたモンターグと合流することになる。
原作だとこの「書物人間」コミューンは男だけの世界だった。
トリュフォーワールドでは老若男女あり、日本人までいるのだ。女教師が暗唱している本が何かわからない。フランス語の書物のようだ。日本人が日本語で暗誦する本もほんのふたことみことだけなので確認できなかった。川端かなんかだろうか。
暗記書物には『火星年代記』も登場する。

 

ちなみに燃やされる本の中に『勝手にしやがれ』がある。

 

モンターグが原作で記憶しているのは聖書なのだが、映画ではポーの怪奇小説集。そういえば『高慢と偏見』はふたごの中年男が役割でなんとなくハンプティー・ダンプティーに似ている。でも『不思議の国のアリス』にはまた別の人が役割を担っているの。
聖書はすでに頭の中に収めてやってくるのが原作のモンターグだけど、映画ではモンターグひとりだけ書物を開いて暗記に余念がない。燃やすためだ。
壁テレビといういまの液晶大型画面テレビジョンを予言する家庭内の機器が登場するが、映画作家トリュフォーはテレビ文化に我慢がならないとばかりに液晶画面を引き裂いてぶちこわしてしまう。


そういう電波文化(?)と活字文化の葛藤を管理社会の恐怖として描いているのだけど、正直いってそのあたりはゴダールアルファヴィル』がずっと良く描いている。
今回この2作を比べて見ることができて興味深い経験ができた。
小説の冒頭は「火を燃やすのは愉しかった」で始まるように、昇火士による禁制書物の焚書シーンからはじまる。伊藤典夫による新訳だ。すっきりしてそれでいて詩的なあじわいもかもしている良い翻訳だ。
でも映画は家々に立っているテレビのアンテナを短いカットで次々に映し出すのだ。女教師の家にはそれがないために政府からの映像メッセージを拒否している家であることがわかるのだけど、いまどき枝状のテレビアンテナ見ても古臭いだけなので、スタートからだいぶチープな印象に見えてしまうことは否めない。
山田宏一の字幕でファイヤーマンを消防士としていてしまっているのが、ちょっと残念だった。