映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『ストレイヤーズ・クロニクル』(2015)

最近、豊原功補の活躍ぶりが目立つ。テレビドラマの『マザー・ゲーム』とか面白くない映画だった『新宿スワン』など脇をしっかり固める類のいい役者だ。

ストレイヤーズクロニクル


本作では元エリート自衛官で、自前で民間警備会社を経営し、悪徳政治家渡瀬を護衛する役割。ストレイヤーズとは敵対する立場だが、最後に昴に声かけられて命を救われる。ロケットに3歳の娘の写真があって、倒れた時にそれが開いて見えたのだ。そのペンダントを首にかけてあげたのが、静。心やさしき超能力者たちというわけだ。原作にこんなエピソードはない。


原作の人物構成やらドラマ的な設定を踏まえつつ、ディテールにはかなり手をいれた脚本となった。
それは仕方あるまい。原作はそもそも冗長にすぎるところがある。刈り込むことは必須だ。


で、豊原功補だが、これは原作だと複数の人物を束ねた造形となった。巨大シェルターを守る選抜の自衛官(ここじゃ安保法案など完無視だ。)たちがアゲハとの戦いで全滅した中にひとりだけ死体の山に隠れていた平隊員があってそれに昴が声かけて家族のところに帰るようにうながす。この人物と渡瀬のボディガード役を綯い交ぜにした。でも原作の伊坂は渡瀬より昴側につくのだが。


映画のはじめにふたつの超能力者チームがどうして誕生したか、両者の違いを説明する。幼少時の頃を描くのだが、これは原作にはない。原作では昴たちのこと、アゲハたちのことの出自の説明は詳しくない。アゲハたちに生殖能力がないと説明はあるものの碧だけ子供が産めるなんてことは書いていなかった。


その碧が未来の希望であること、そしてそれを黒島結菜が演じたことはまことに喜ばしい。


その伏線ともいえるマンションの隣の大学生とのエピソードは重要だ。ゲスの極みがここで炸裂する。歌詞入り音楽が場面にかぶるこの演出が本作通じて唯一瀬々らしさがだせたところなのじゃないか。
隣の大学生が碧に気が合ってそれを静とモモがからかうところ、原作でもそうだ。
けど原作でのふたりのからみはもっと血みどろなものだ。『モールス』を連想させるような吸血鬼と人間の少年との出会いだ。トンネルで碧が痴漢に襲われそこに大学生が通りかかる。碧は自分が攻撃用の武器を持たないことを気にしていて、服の袖に仕込む鋭利な鋼鉄の板をヒデと隆二からもらっていた。


痴漢をその武器で試し切りして殺すと、大学生は殺したと勘違いする。警察に行こうとするのを碧は止める。その日から1周間、碧は大学生の部屋に寝泊まりするのだ。そこで肉体関係になるのではないが。
トンネルで血が付いたタオルを碧は洗って返すと約束する。
その約束を果たすのは昴である。昴が大学生の部屋を訪ねて碧から預かったタオルを返すのだ。


でも映画のラストは就活中の大学生と碧との再会に置き換えられた。むろん、通りがかかっただけの会話であり、そこから関係が生じるかどうかはわからない。もし『ストレイヤーズ・クロニクル2』があるなら碧と大学生の間に子供が10人産まれて、大きくなって超能力者となって争いあうというストーリーだろう。


原作の学は、染谷よりもっとずっと子供だ。車椅子には乗っている。映画のように燃やされることはなく、世界はパンデミックを静かに待ちながら幕を閉じる。
でも『感染列島』で日本消失まで追い込んだ瀬々監督はそこまで描く必要がなかった。