映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『少女』(2016)

こんなにも重くて深刻な暗いドラマだとは思わなかった。


本田翼を使ってこんなに息苦しくも重苦しい作品にしてしまうとは、それはそれで一種の才能だったかも知れない。それとも一瞬の才能か。
お笑い芸人・児嶋一哉が出ていながらひとかけらの笑いすらとろうとしない。恐れ入った。(鬼子母神

原作を読んでから見たことにいささか後悔した。

映画シナリオとして再構築された時に、原作の緊密な構造がドラマとしてどれだけ成り立ったかを試してみることが叶わないから。映像だけみて、ストーリーを伝えることができていたのだろうか?
それが確認できない。


逆に、見てから読んでも、それは結末が判ってしまっていることでつまらないわけで、痛し痒しだ。

 

本田翼が小説を書くような文学少女とは似合わない。それでだめというわけではなく、おばあちゃんが認知症だという説明がないけど、この画面で分かるのだろうか? 藤岡に対する怒りを爆発させるおばあちゃんなのだが、いつの間に老人ホームに収容されたのか。喉につかえた餅菓子は藤岡からの手土産であったという下りは省略している。藤岡の存在は映画では明らかにされない。
これでドラマの流れは見るものに伝わるのか、なんとなく心配になった。

 

小説でも映画でも太一と昴を入れ替えて父親探しをやった理由がよくわからなかった。本田翼をここで驚かせて何が得だったのか。
由紀がボランティアサークルに、敦子が老人ホームに通うときに、「人の死を見たい」という動機があったことを映画は明かさない。そこは感じ取れということか。由紀が重症の子どもたちに触れ合う動機がそうなのだが。

要するに死への希望(?)が原作ほどには強く感じられない。『スタンド・バイ・ミー』とか『夏の庭』への言及も無論ないのだ。

 

小説だと由紀と敦子は幼馴染の親友同士というだけでなくどことなくよく似ている。どっちがどっちか錯覚しそうになる。それを記号で区別していてもそうなる。
映画は本田翼と山本美月を間違えるわけがないのだから、つくり方としてまずいかもしれない。

 

他の作品ということなら、女子高生と死体というテーマに四ツに取り組んだ欅坂46のドラマ『徳山大五郎を誰が殺したか』がある。本田が魚の目玉に箸を突き刺すシーンが『少女』にはあるのだ。おばあちゃんを殺したい衝動が魚の目玉に向かっていく。『徳山』でもベリカがキャラ弁の顔の目玉に箸を突き刺して、こっちは涼しい顔して喰ってしまうところが一枚上手だ。

 

山本美月の敦子はときどき過呼吸に陥る。原作にもあるし、それを由紀が知っていてコンビニの袋を頭にかぶせるのも度々だと。『徳山』では長濱ねるだ。過呼吸とまではいかないが、先生の仕打ちにショックを受けて、呼吸が荒くなり苦しげに見える。だったら由紀は長濱でもよかったのか。長濱が苦しがっているのを心配して駆け寄るクラスメートがいる。敦子か
ふたりの中を嫉妬してナイフで刺そうとするのが虹香だ。紫織相当。

 

『徳山』は欅の人々が実名で役名を演じている。もしかしてだけど、『少女』も本田翼と山本美月という役名でよかったのでは、その方が良かったのでは。

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