『マリー・アントワネット』(2006)
「ガーリーテイスト全開」とか「ポップでおしゃれ」などという賛辞に飾られた批評が目立ったソフィア・コッポラの新しいマリー・アントワネット像だが、今となると惨事、というくらいに忘れ去られてレンタル屋で探すのに苦労するほどだ。
兵どもが夢の跡。
原作とことわっているわけではないがシュテファン・ツヴァイクの伝記を読んでおくと理解が深まる。
キルステン・ダンストがマリー・アントワネットを演じることで歴史上の女子が今風に再現されたことは事実。
10代の頃の意気盛んな頃に、必然ともいえる欲望のひとつをシャットアウトされた悲劇の女性。いま考えるとそもそもこんなところだった。止められた欲望の反動が大量消費に活路を見出し、国家的な無駄遣いが自らの破滅につながるという、なんとも明快なロジックでコッポラの娘は攻めきった。その理路整然さ加減がアメリカ映画にふさわしく、ふさわしすぎて注目度は急激枯渇という次第だったか。小気味いいといえばいえるのだが、マリー・ダンストが味わった孤独の要因たる夫の性的な無関心について、決して明確ではない。そのあたりは女性としての恥じらいがあったのか、はっきり語られなかった、でもツヴァイクを当たった我々ならばそれははっきりしている。ルイ16世は決して不能者ではない。映画でもふたりの間に子を設けて不倫の子ではないのだから、不能でないことはわかると思う。
いい若い者のくせに女との性交に関心がないという、かといってホモでもなさそうととにかく無気力な意気消沈男とだけ描かれた。
彼が包茎であったことは語られない。それもただの皮カムリではなくてカントン包茎という一種の奇形であり、勃起によって苦痛を生じるという深刻な症状を呈するものだ。
マリーも可愛そうだが、ルイ16世もまことに気の毒な境遇にあった。
だから、sexしようとして痛がるくらいの描写があってもよかったのだ。
この痛みをルイは婚姻後3年程も我慢する。手術を嫌がっていただけだけど。当時からカントン包茎は手術で克服できることが知られていたのだ。
ヨーゼフ2世がやってきて、ルイを説得する画面がある。ここもソフィアの描き方は判然としない。
映画では精神的に鼓舞するばかり。
だが実際は、ヨーゼフはルイに手術を受けるように説得に来たのだ。
政略結婚のふたりの間に子がないとは国家間においても重大な問題だからだ。
マリーの母マリア・テレジアも手紙で何度も愛娘を鼓舞している。
そもマリア・テレジアが肖像画そっくりで驚いたのだが、演じているのがマリアンヌ・フェイスフルというのでもっと驚いた。実はここがこの映画一番の歓喜であった。皮ジャン脱いだマリアンヌがルネサンス装束でオーストリア女王とは、なんとも粋である。
もひとつ、ツヴァイクからの受け売りで比較するとフェルゼン伯爵はマリーを弄んだただのゲス男ではない。ふたりの間には純愛とでもいうべき絆があり、パリに連行された後も、失敗したとはいえ逃亡計画ヴァレンヌ事件の手引をした中心人物も彼であった。(もっともフェルゼンには他にも愛人がいたことも知られている。)