映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『剣』 1964 日本 モノクロ 95分

道場での練習風景の激しさ。
剣道の練習風景ばかりで試合シーンはわずかだ。全国大会優勝を目指しての練習だが、大会に至る前に映画は終わってしまう。
多数の剣道部員が一斉に振り下ろす竹刀。奥行きのある幅の広い画面に同じ動きを繰り返す部員たちを背景に、号令かける主将の国分や、40分正座の罰をくらった賀川がアップで配される。
三島の手前もあったのかも知れないが、驚くほど原作に忠実な映画化だ。大きく前半、後半に分かれていて、後半が千葉県の海岸沿いの寺での剣道部の夏合宿だ。この後半の筋は、ほぼ原作通り。ただ、雷蔵(=国分次郎)が死んだ後での道場の場面は、原作にはない。ここで藤由紀子が国分との関係の真実を告白するのだが、それによって川津祐介の賀川が嘘を暴かれて落ち込むというあまり爽快でもないラストとなる。
小説では夏合宿に藤由紀子が現れることがなく、そこと顧問を迎えに行った帰りに通りがかりのトラックに乗せられて国分たちが寺にもどってくるところが違っている。トラックに乗るのではなくて町長が車を出して迎えに来てくれるのが三島流だ。いずれにしろこれで賀川たち部員の悪だくみ(海で泳ぐというだけ)がバレてしまい、雷蔵は不機嫌になるし、顧問はお前なんかもう帰れと賀川が大目玉をくらう。ここで罰を受けるのは賀川だけ、国分は責任を加重に感じて死に至る。
この時、壬生の立場は微妙でアンビバレンツな感情に支配される。小説ではその矛盾した意識の流れが入念に書き込まれているが、映像だとごく簡単に描かれる。はじめ壬生は海に入るのを拒否して寺に残る。しかし、国分たちが早く戻ることが分かると、自分だけいい子ちゃんでいることが恥ずかしくなって、泳いで帰る連中の中に交わってしまうのだ。それだけで済まされるが、小説の意図は十分に表現されている気もする。
部員たちが海に入るシーンは遠目で砂浜全体を俯瞰させる。
シネマスコープのひろびろと見せるシーンとアップの対象、そこに切れのいいアクションを放り込むいつもの三隅スタイルだった。
前半というのは、大学剣道部の活動の様子と国分の極端な性格が描かれる。壬生はそれに触れて尊敬を強くするのだ。国分という男を語るいくつかのエピソードが映画でも描かれる。電車やバスに乗った時に、かならず老人や乳幼児を抱える母親に席を譲るとか、鳩を撃った他学のライフル学生を竹刀で追い払うとか。鳩の血が頬にかかったのを用務員のじいさんがリヤカーのごみの中から拾い上げたユリの花びらで拭うのだ。血と(バラではなく)ユリを組み合わせるのが三島的な美学なのか。ここに藤由紀子が居合わせて、国分に対して異性の魅力を感じる。小説はほとんど女っけというものがないが、逆に男色の雰囲気もない。だから血とユリの花なのか。
藤の存在と主将の地位をめぐっての国分と賀川との対立を鮮明にして映画は軸としている。賀川の嫉妬は多分に一方的な感じもある。
もうひとつ三島的な美学の表出は死と枇杷だ。睡眠薬で自殺する国分の同級生があって、死の床で枇杷を食い散らかしていたという場面、顔はシーツのように真っ白になって死んでいる。
藤由紀子はことあるごとに国分にちょっかいを出す。賀川にうその電話をさせて部屋に呼び出し、ジルバを踊って誘惑する。そこでスカートに手を入れたという嘘がラストシーンにつながるのだ。
茶店でトイレの入り口の席に陣取り、痴漢じみたことしているグループを国分が追い払う話もあり、これはさすがに脚色されないかと見ていたが、ほぼ小説通りの場面になっていた。ここは壬生が立ち会っていて国分の英雄度を強くする。
三島作品としてはわかりやすい短編小説を題材としているが、さらに人口に膾炙するストーリーに仕上げている。

『少女は卒業しない』 2022

日本  カラー 120分
初公開日: 2023/02/23
監督:中川駿 原作:朝井リョウ

出演:河合優実 小野莉奈 小宮山莉渚 中井友望

 

卒業式の一日前、それから卒業式当日に舞台をしぼったドラマなのだが、河合のパートで、回想がある。一見、回想とは見せない(見えない)編集である。弁当の飾りの国旗の数が5個となり、国連のように増やそうと話しているのが、卒業式の1日前の会話にしてはおかしいなと感じさせ、話が進むと(ほかの女子のパートが挿入され)実は、彼は死んだということが分かるのだ。校舎の上階か屋上かから落ちたのだ。大慌てで河合が階段を降り、校舎を走り抜け辿り着くと地面に横たわるボーイフレンドの駿が他の生徒に囲まれている。かき分けて駆け寄る河合。すでに死んでいるようにも見えるが、それが事故なのか、自殺なのかは知らされない。自殺としても理由は何かなど一切語られず、それは語るに落ちるわけで、だから落ちたわけなのだ。こういう無駄な描写を一切省き、センチメンタルを避けて少女たちの恋模様を語るという離れ業をやってのけた。
ちなみに駿の死の理由は原作を読むと分かる。


駿が剣道部の副部長かどうか、映画では示されない。映画の全体で原作のディテールはかなり省略されて、変更が加えられて、それは原作無視というくらいまで極限に映画的に再構築されている。しかしながら、原作のスピリットは存分に引き継がれている。そこが奇跡なのだ。


まなみ(=河合)は小説だと弁当つくるだけじゃなくてクッキーも焼く。クッキングコンテストに出品するため、何度も試作して味見をしてもらう。駿は受け取って床に落としてしまい、「3秒ルール」で拾って食べる。映画だとこれが弁当のおかずのさやえんどうだ。台本にはなくて即興の芝居だった。


原作に在校生が長い送辞を読む一篇がある。映画ではまなみの方が答辞を読むにおきかわり、送辞のエピソードは省略される。


映画は4人の女子のドラマを並行してテレコで見せるわけで、それぞれのドラマにあまり関連を持たせていないようにも見える。しかし、引っ込み思案な性格の作田(=中井友望)は同級生たちに思い切って話しかける。そのきっかけが「山城さんが答辞を読むから」なのだ。


卒業生・在校生の合同リハーサルは小説にはなく、「在校生起立」の号令でひとりだけ卒業生の後藤(=小野)が立ち上がってしまうドジをするのは映画だけのものだ。後藤の性格をこれだけのカットで集中的に伝達できる名シーンといえる。


まなみが答辞を読むことがなぜ作田の行動の動機になるのか理由はあかされない。それは野暮だからだ。だが、駿の死が関係するのかと推測はできる。映画の画面の流れだけで心理的なものを自然に感じさせる繊細さがにじみ出る演出だ。このようにして観客は映画のドラマとともに生きることができる。

ヴィム・ヴェンダースの『緋文字』 1972

原作ではパールの瑞々しさがまぶしいばかりに描写されているが、ヴェンダースのパールも負けず劣らずに可憐だし、わがままぶりが愛おしいくらいだ。ヘスターのゼンタ・ベルガーも美しい。
ヴェンダースこんなに人間を美しく描ける作家だったかと見直す思いだ。
知らず識らずのうちにヴェンダースも若手ではなくなっていた。もはや古典にも近い。
なぜ、アメリカ文学のこんないかめしいくらいの古典を映像化しようとしたかわかないが、これはヴェンダースのドラマを紡ぐ才覚がもっとも発揮された作品といっていいのでは。
(逆に言えばヴェンダースはドラマチックとは無縁だから。そこは異色作としてもいいのだと思われる。)

物語の流れはほぼ原作通りである。
真紅のAー姦婦(adulteress)を示すーの文字を胸に刺繍した罪の女ヘスター・プリンがまず人々の目の前に現れる。
彼女は7歳のパールと半島の小屋に押し込められて外出を禁じられていたもののようだ。
禁じたのは教会、ということができるかもしれない。
というのはここは新大陸の荒れ地の一角であってセイラムと名付けられた土地なのだ。
ただ原作は、ちょうどパールをヘスターが産んだところから始まっている。罪の女が赤子を抱いており、それを人々が見上げている。この中には牧師ディムスデールがあり、旅から帰った医師チリングワースもいる。
この3人の関係がこの物語の全てといってもいい。パールが誰の子なのかをめぐるミステリーと原作を読むこともできるが、緋文字Aの印が付けられている時点でそれを裁いた者はすくなくとも知っているはずだ。
原作のヘスターは刺繍の腕前をもちそれを商売にして生計を立てる。一方で映画は総督が面倒を見ている。おそらく総督はパールの父を知っており庇うかたちでヘスター母子の面倒をみているという設定だと思われる。
ヘスターはその御礼のためか総督の衣服を自分で仕立てて献上するのだ。


森の中でへスターと牧師は対峙する。そこでヘスターは苦しみを逃れる方法を提示するのだ。
ヴェンダースは、セイラムの港に寄った船の乗組員に乗船の交渉をするところを見せた。これは原作にはない。その手続をするにもパールが役に立った。
そしてパールに牧師と仲良くするよぷにヘスターは促す。しかしここでは懐かない。
小説だと、牧師がパールの額にキスする。しかし、パールは懸命をそれを川で洗い流してしまう。
3人で船に乗ることをヘスターは考えていたが、ここにチリングワースが介入する。小説では、ヘスターをそっちのけで、牧師の乗船許可を船長に頼んでしまうのだが、映画は船に船医が必要となって依頼を受けるのだ。
しかし、その後の展開で牧師も医師も船に乗ることはなかった。
牧師が最後の説教の後に文字通り命を落とすからだ。
映画は(これも小説と違う工夫)自分の胸に刻まれたAの文字を公開した時に倒れるのだが、いったん息を吹き返す。そして船に乗る意欲を見せるのに、後に赴任してきた高齢の牧師がいて、ディムスデールの首を絞めて殺してしまうのだ。
そしてへスターとパールは船に乗って海へ。
小説は二人が航海に出たかどうかは曖昧な書き方をしている。
パールだけが遺産を受け継ぎ、ヨーロッパで暮らしていることを伝聞で語り締めくくりとなる。

『セブン・イヤーズ・イン・チベット』 1997 SEVEN YEARS IN TIBET

原作は紛れもない傑作ノンフィクションだが、記録文学だけにそのまま劇映画にするわけにはいかなかった。
アノー は主人公のハラーにブラッド・ピットが演じるにふさわしい人間味を加えて脚色している。
事実かどうか不明だが、ハラーには妊娠している妻があって、止めるのも聞かずにアルプス行の列車に飛び乗る。登山中も自己中でケガを隠して山登りを続けたり、天候で下山しようとするチームに逆らって自分だけ登頂をめざそうとする。
原作のハラーは時折、無茶なところもあるが、ここまで自己中心的ではない。仲間との関係をまことに大切にしている。
チベットにはペーター・アウフシュナイターとふたりで乗り込むわけだが、そこで仕立て屋の女性とアウフシュナイターが結婚するなんて話は原作にはない。『仕立て屋の恋』(1989)と洒落を決め込んだのか。
ハラーたちは兵士ではないが、イギリスの捕虜収容所に捕らわれる。原作は収容所から脱走するところから始まるから、そこに至るエピソードを映画では付け加えている。
同時に、幼いダライ・ラマ14世が法王に任命される儀式を早いうちに見せ、また中国共産党チベットを狙っているきな臭いシーンも描いている。
だからチベットにたどり着いたハラーたちが歓迎ムードにあってもそこに中国軍の影が忍び寄っていることを同時に描いて、ラストのチベット侵攻の悲劇を予感させていた。
これがオーソドックスなやり方だと思うのだが、最近劇場で見た『峠 最後のサムライ』(2019)だと長岡藩に迫っている官軍との衝突という危機感をまえもって描かないという致命的なミスを犯していた。
ダライ・ラマ14世が幼少時から非凡な知能の持ち主だったことは原作でも随所に語られる。映写機を自分で分解してく組み立て直したという驚くべきエピソードもある。映画ではそこをオルゴールの分解・組み立てに置き換えている。
なおダライ・ラマ14世がハラーに映画館の建造を依頼したのは事実で、映写室でふたりは親しく語り合ったことも原作通りだ。
別れの手土産にオルゴールをもらったことは脚色で、その後に息子と再会して、オルゴールが和解の助けになるというのも映画だけのラストシーンである。
チベットのあいさつの習慣であるスカーフの交換が映画でもうまく描かれていた。
ハラーが金髪だったか知らないが、はじめて謁見する時に幼いダライ・ラマ14世がピッドの髪の毛を「黄色い髪の毛」といってかきまわす。たぶんこのためにブラッド・ピッドが必要だったのだろう。

 

『雨あがる』 1999

最初は『羅生門』。大雨の情景。それから『どん底』。貧民たちの酒肴と踊り騒ぎ。『椿三十郎』のような、城下の若侍たちの群れとの交流あり、『影武者』でのように殿様は動き回る馬上から話しかける。三船史郎は馬の上でのセリフはまあまあなのだが、降りるとまるでなっていないのだ。『隠し砦の三悪人』にあったような槍と刀(ただしこっちは木刀)との一騎打ちも、といった具合に黒澤作品のイミテーションを寄せ集めたようなシーンの連続だ。隆大介さえもちょい役で出ていた。


どういうつもりだったか知らないが黒澤つながりで二世役者を起用せざるを得なかった小泉監督は気の毒だったかとも思える。

小説だと釣りに行こうと歩いていたところに城下の若者たちが決闘(抜身のけんか)をしていて、釣り道具を置いてそれを止めるのだ。

映画の寺尾は釣果をぶら下げて宿に戻ってくる。そこに見知らぬ馬が停まっていて城への呼び出しとなるのだ。この汚い宿に原作の使者は中に入ろうともしないのだが、映画の吉岡以下の者は律儀に中で待っている。

そもそもが伊兵衛を屋敷に呼び出すのが城主ではなく青山主膳という家老職の人だ。殿様はまだ若輩だが剣術に大いに興味があって師範を探しているというのが、原型のプロット。

殿様自身でも青山某でも伊兵衛に槍でもって向かっていく場面はない。
当然ながら、雨が上がった山道を旅立つ寺尾・宮崎カップルを馬で追いかける殿様一行の姿もない。

映画でこの大根役者たちの群れはとうとう寺尾に追いつけることはないのだが、演技同様に的はずれな方向を追いかけたとしか思えない。

『最後の標的』1982 劇場未公開

原作が、ジャン=パトリック・マンシェットの『眠りなき狙撃者』。


アラン・ドロンがマンシェットを自分の都合いいように脚色して映画化。
だからラストはハッピーエンドになる。


とはいえピエール・モレル監督『ザ・ガンマン』(2015)みたいにまるで別物であるかのように改変しているわけではない。こちらでショーン・ペンの演じたのは元特殊工作員の暗殺者という暗黒面ではなくて正義の側にいる人みたいになってしまった。

アラン・ドロンの脚本は、外国で一仕事終えてパリの自宅にもどりそれから殺し屋稼業をやめようとするという流れは原作に沿っている。
恋人と別れて飼い猫だけ連れて足を洗うつもりなのも同じ。
しかし彼女も猫も組織に殺されることはなく、まして猫の死骸が水槽の中にバラバラになって浮いているなんてことはない。

 

原作だと主人公テリエは田舎にひっこんで昔の恋人と再会する。
彼女はかつての親友と結婚していた。

それが映画だと財産管理をしてもらっている女がいて、勝手に七面鳥工場に投資してしまう。その工場の経営者がドヌーブの旦那なのだ。


ここにロシアンマフィアの追手が現れ、このジャズ狂いの男を殺してしまう。
ドヌーブとドロンはその前にできていて、ふたり(ドヌーブがロシア人の女殺し屋を背後から暖炉の火鉢で串刺しするという機転によって)はあやうく難を逃れる。

と思ったら今度はドロンを手放したくない雇い主に捕まってしまう。
デブの女家主のいる家の中だ。
そして今度はドロンが家主を背後から襲っておっぱい鷲掴みして気をそらし車のキーを盗み出す。うまくドロンすることができた。

 

こういう全編が襲撃と逃亡の繰り返しで息つかせぬ展開が悪くないのである。

 

ドロンが『タクシードライバー』(1976)のデ・ニーロが使う飛び出し拳銃の仕掛けそっくりのナイフ発射器を身に着けて敵を返り討ちシーンがある。

ドヌーブとドロンが心を通わせ始めるきっかけが『マディソン軍の橋』(1995)と逆パタンであることも見逃せない。
イーストウッドメリル・ストリープはお互いの音楽趣味が同じだったことが分かって交流が深まるのだけど、その前にメリル・ストリープの自宅でラジオで好きなジャズを聴きながら家事していると、夫と子どもたちが野球放送かなんかにダイヤルを変えてしまうのだ。そこで腐っているところに同じ趣味のイーストウッドに出会って心ときめくという、これはイーストウッドの音楽を使った優れた演出だった。

『最後の標的』の場合は、ジャズのレコードコレクターらしいドヌーブの旦那が食事の時にやかましくレコードをがなり立ててたのをヒステリー気味のドヌーブが止めて、旦那がまたかけて、またドヌーブが止めるというのを繰り返して、ドロンが冷え切ったような夫婦関係に同情の視線を投げかけるとドヌーブはころりといってしまって、ドロンの寝室にやってくるという仕組みだ。

原作だとこの主人公の元恋人は淫乱で、監禁されている家で見張りの男を誘惑してベッドインしたりもする。

その点、ドヌーブは靡いたドロンに一直線だ。

ラストは金を取り戻し、ヘリコプターで海外に逃避行する。
マックィーン『ゲッタウェイ』(1972)を思わせないでもない。ジム・トンプソン原作のシュールなラストをスマートな逃亡劇にまとめた映画化にも通じている。
ドロンは脚本にあたって、1972のペキンパー作品を意識したと見えないこともない。
ちなみにマンシェットの原作のラストもかなりシュールではある。

『アジャストメント』2011について

THE ADJUSTMENT BUREAU
アメリカ Color 106分

 

原作は短編でそれもストーリーに(ディックらしい)飛躍や省略も見受けられて自分的には未消化なまま読んでしまった感もある。
映画はこういう欠落(?)を埋めつつも大きく翻案しているのがポイント。
だから、原作は読んでから観るとより楽しめると思う。
女子トイレにわざわざ出かけていって娘に刺されて死んでしまうのが『ファーストラヴ』(2021)環菜の父親だった。
ここでは男子トイレにエミリー・ブラントが現れ、マット・デイモンのハートを射抜く。
その後で調整者たち(アジャストメント)の手違いで二人はバスの中で偶然の再会をする。エミリーのスカートにマットがコーヒーをこぼすことで。エミリーは仕返しにマットのスマホをコーヒーカップの中に沈没させる。
普通ならばこれでふたりの中はぼちゃんとばかりにオジャンになるはずだ。
原作の主人公は不動産屋の普通のサラリーマンである。妻もある。
映画ではマット・デイモンがやんちゃな上院議員候補だ。
なぜか酒場で下半身露出というスキャンダルのシモネタに走って人気も下げる。
そのショック冷めやらぬところにエミリーは出現して次期選挙へのアドバイスをする。
それだけでマットから姿を消さなければならなかった。
マットは原作と違って独身だ。
それでエミリー・ブラントに一目惚れだ。
アジャストメント=調整者というのは、現実に手を加える者たちだ。神の手ということだ。
神は未来のためにマット・デイモンが大統領の方が良いと考えた。
だからエミリー・ブラントをトイレで会わせて上院議員戦への意欲を植え付ける。エミリーの役目はそれだけであった。
そこから計算違いの未来が生まれる。調整員のちょっとしたミスだった。
会社に通うためのバスに乗り遅れるよう「工作」することに失敗したのだ。
おかげでデイモンは、エミリーに再会してしまう。
狂った予定を修復せんと調整員たちがふたりの逢引の邪魔にかかるというのが大筋のストーリーだ。
オフィスで調整作業途中をデイモンが見てしまい、不審を感じる。
調整員がミスして予定が狂い、修復中の主人公に目撃されるという原作のアイデアを膨らませて長編ドラマに仕立てたというのが、この作品で、アレンジの方向は悪くないと思う。
エミリーがモダン・バレエのダンサーで、デイモンが練習を見に行きたいのに練習場所の連続した変更で見に行くことができない。
エミリーの踊るバレエがアヴァンギャルドっぽくて、ステージの観る客席に椅子がない。立ったままの鑑賞だ。『サスペリア』2018でダコタ・ジョンソンが踊ってたダンスよりよほど趣味が良い。