映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『殿、利息でござる!』(2016)と「穀田屋十三郎」

原作の磯田さんに宮城県の片田舎に埋もれた歴史を掘り起こして欲しいと依頼があり、この原作を書き始めたようだ。
おかげで、映画は宮城出身のスター(?)総動員だ。岩田華怜、千葉雄大羽生結弦本間秋彦…(これだけ)。本当なら竹内結子ではなくて、鈴木京香でなければならなかった。草笛光子の代わりに篠ひろ子だったか?
『無私の日本人』という本来なら無視してもいいような市井の人たちを主人公にした短編集なのかと勘違いしていたのだが、無視じゃなく無私だった。つまり自分の私利私欲や出世欲のためでなく、ひたすらに地域のため、日本のため、世界のために生きた人々の伝記だった。
その中で最長編の「穀田屋十三郎」が原作だ。
いまでも宮城県黒川郡吉岡に「酒の穀田屋」として店舗がある酒屋だ。
この主人公、穀田屋十三郎を阿部サダヲが演じるのだが、原作でははなはだ平凡な人物で、主人公っぽくない。(ちなみにだが、穀田屋以外の2篇の主人公は超絶な天才たちだ)殿様に金を貸して利息をもらうという発想がそもそもこの人じゃなく、相談に行った菅原屋篤平治が考えた。
映画では、瑛太がこれを演じて、居酒屋でふと思いついたように描いているのが嘘っぱちであり菅原家は以前よりこういう発想を考えていて、穀田屋が来た時に頃や良しとそれを打ち明ける。
小説には居酒屋もおかみのときも登場しない。全体的に女っ気が少ないので、補ったわけだ。菅原家の嫁が若いという話も少し出てくるけど、山本舞香を連れてくる場面はない。総じて嫁が姿を現すことは、小説にはない。
その点、映画はドラマの背景を説明する導入部にうまく使った。嫁を馬に乗せて郷里に帰ってきた菅原家は、肝煎の遠藤幾右衛門に馬を取り上げられてしまう。藩に納めるためだ。
ここ吉岡宿には「伝馬役」が課せられて「ふつうの農民のごとく年貢だけではすまない。藩が公用で街道を往来するといって人馬を強制的に徴発していく」と磯田さんは書いている。
これに憂えた阿部は上訴しようと書状を用意していた。その場に居合わせた瑛太はとっさにこれを止める。
阿部が手にした書状を見て、役人が「何か」と問い詰める。
一緒に平伏していた瑛太はとっさに自分の持っていた書状と差し替えるという機転を発揮して危難を逃れるのだ。上訴は死罪に値するからだ。
瑛太、すなわち菅原家はお茶屋だ。これまた現在、「お茶の菅原園」として名を残す。この時は、京の九条関白家から茶のお墨付きをもらったその書状と差し替えたのである。ついでに(京の地の人を)嫁にもらってきたというわけだった。
だがここも原作とはちょっと違っており、東北の茶の権威付けのために「関白家に、この茶を献じてみよう」という念願を語るに過ぎない。
「熊野牛王符」も映画には出てこない。
「菅原家はどこで手に入れたか、熊野牛王符をもっており、十三郎に、それを突き出した」
ナレーションの説明が多すぎるのがこの映画の欠点のひとつなのだが、起請文についてまで説明しはじめるときりがないから採用しなかったのかとも思われる。
ナレーションが濱田岳だ。中村監督+伊坂作品ではよく主役に抜擢されているが、ここでは出番なしなので、この時代劇ではせめて声で攻めるのだった。
三浦屋の鋳銭座と吉岡宿利息チームとの関わりのありかたも原作と違うところだ。原作の十三郎と婿の音右衛門はよそよそしい親子であったが、利息作戦を打ち明けるととたんに打ち解けるのだ。三浦屋が仙台藩から鋳銭をまかされて、音右衛門に座方取締役を頼みたいといってくる。小説では利息チームの活動がはじまったころから鋳銭の話が出てくる。
映画は利息チームの願いが通った後にようやく鋳銭がはじまったような話になる。銭五千ではなく千両にせよと換えられた時にだ。千両だと五千八百貫文になる説明としてだ。これによって甚内はさらに五〇〇貫文追加する。
残りの三〇〇の算段が小説と大きく違ってくる。
まず竹内結子のときが胸を叩く。居酒屋のたまりにたまった付けを集めるのだが、それでも足りぬ。
ここで利息チームの拠出金がいかに大きいかが改めて認識される寸法だ。