映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『最後の標的』1982 劇場未公開

原作が、ジャン=パトリック・マンシェットの『眠りなき狙撃者』。


アラン・ドロンがマンシェットを自分の都合いいように脚色して映画化。
だからラストはハッピーエンドになる。


とはいえピエール・モレル監督『ザ・ガンマン』(2015)みたいにまるで別物であるかのように改変しているわけではない。こちらでショーン・ペンの演じたのは元特殊工作員の暗殺者という暗黒面ではなくて正義の側にいる人みたいになってしまった。

アラン・ドロンの脚本は、外国で一仕事終えてパリの自宅にもどりそれから殺し屋稼業をやめようとするという流れは原作に沿っている。
恋人と別れて飼い猫だけ連れて足を洗うつもりなのも同じ。
しかし彼女も猫も組織に殺されることはなく、まして猫の死骸が水槽の中にバラバラになって浮いているなんてことはない。

 

原作だと主人公テリエは田舎にひっこんで昔の恋人と再会する。
彼女はかつての親友と結婚していた。

それが映画だと財産管理をしてもらっている女がいて、勝手に七面鳥工場に投資してしまう。その工場の経営者がドヌーブの旦那なのだ。


ここにロシアンマフィアの追手が現れ、このジャズ狂いの男を殺してしまう。
ドヌーブとドロンはその前にできていて、ふたり(ドヌーブがロシア人の女殺し屋を背後から暖炉の火鉢で串刺しするという機転によって)はあやうく難を逃れる。

と思ったら今度はドロンを手放したくない雇い主に捕まってしまう。
デブの女家主のいる家の中だ。
そして今度はドロンが家主を背後から襲っておっぱい鷲掴みして気をそらし車のキーを盗み出す。うまくドロンすることができた。

 

こういう全編が襲撃と逃亡の繰り返しで息つかせぬ展開が悪くないのである。

 

ドロンが『タクシードライバー』(1976)のデ・ニーロが使う飛び出し拳銃の仕掛けそっくりのナイフ発射器を身に着けて敵を返り討ちシーンがある。

ドヌーブとドロンが心を通わせ始めるきっかけが『マディソン軍の橋』(1995)と逆パタンであることも見逃せない。
イーストウッドメリル・ストリープはお互いの音楽趣味が同じだったことが分かって交流が深まるのだけど、その前にメリル・ストリープの自宅でラジオで好きなジャズを聴きながら家事していると、夫と子どもたちが野球放送かなんかにダイヤルを変えてしまうのだ。そこで腐っているところに同じ趣味のイーストウッドに出会って心ときめくという、これはイーストウッドの音楽を使った優れた演出だった。

『最後の標的』の場合は、ジャズのレコードコレクターらしいドヌーブの旦那が食事の時にやかましくレコードをがなり立ててたのをヒステリー気味のドヌーブが止めて、旦那がまたかけて、またドヌーブが止めるというのを繰り返して、ドロンが冷え切ったような夫婦関係に同情の視線を投げかけるとドヌーブはころりといってしまって、ドロンの寝室にやってくるという仕組みだ。

原作だとこの主人公の元恋人は淫乱で、監禁されている家で見張りの男を誘惑してベッドインしたりもする。

その点、ドヌーブは靡いたドロンに一直線だ。

ラストは金を取り戻し、ヘリコプターで海外に逃避行する。
マックィーン『ゲッタウェイ』(1972)を思わせないでもない。ジム・トンプソン原作のシュールなラストをスマートな逃亡劇にまとめた映画化にも通じている。
ドロンは脚本にあたって、1972のペキンパー作品を意識したと見えないこともない。
ちなみにマンシェットの原作のラストもかなりシュールではある。