映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『セブン・イヤーズ・イン・チベット』 1997 SEVEN YEARS IN TIBET

原作は紛れもない傑作ノンフィクションだが、記録文学だけにそのまま劇映画にするわけにはいかなかった。
アノー は主人公のハラーにブラッド・ピットが演じるにふさわしい人間味を加えて脚色している。
事実かどうか不明だが、ハラーには妊娠している妻があって、止めるのも聞かずにアルプス行の列車に飛び乗る。登山中も自己中でケガを隠して山登りを続けたり、天候で下山しようとするチームに逆らって自分だけ登頂をめざそうとする。
原作のハラーは時折、無茶なところもあるが、ここまで自己中心的ではない。仲間との関係をまことに大切にしている。
チベットにはペーター・アウフシュナイターとふたりで乗り込むわけだが、そこで仕立て屋の女性とアウフシュナイターが結婚するなんて話は原作にはない。『仕立て屋の恋』(1989)と洒落を決め込んだのか。
ハラーたちは兵士ではないが、イギリスの捕虜収容所に捕らわれる。原作は収容所から脱走するところから始まるから、そこに至るエピソードを映画では付け加えている。
同時に、幼いダライ・ラマ14世が法王に任命される儀式を早いうちに見せ、また中国共産党チベットを狙っているきな臭いシーンも描いている。
だからチベットにたどり着いたハラーたちが歓迎ムードにあってもそこに中国軍の影が忍び寄っていることを同時に描いて、ラストのチベット侵攻の悲劇を予感させていた。
これがオーソドックスなやり方だと思うのだが、最近劇場で見た『峠 最後のサムライ』(2019)だと長岡藩に迫っている官軍との衝突という危機感をまえもって描かないという致命的なミスを犯していた。
ダライ・ラマ14世が幼少時から非凡な知能の持ち主だったことは原作でも随所に語られる。映写機を自分で分解してく組み立て直したという驚くべきエピソードもある。映画ではそこをオルゴールの分解・組み立てに置き換えている。
なおダライ・ラマ14世がハラーに映画館の建造を依頼したのは事実で、映写室でふたりは親しく語り合ったことも原作通りだ。
別れの手土産にオルゴールをもらったことは脚色で、その後に息子と再会して、オルゴールが和解の助けになるというのも映画だけのラストシーンである。
チベットのあいさつの習慣であるスカーフの交換が映画でもうまく描かれていた。
ハラーが金髪だったか知らないが、はじめて謁見する時に幼いダライ・ラマ14世がピッドの髪の毛を「黄色い髪の毛」といってかきまわす。たぶんこのためにブラッド・ピッドが必要だったのだろう。