映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

黒澤明式『どん底』(1957)

 

どん底(1957)

 
 
メディア 映画
上映時間 137分
製作国 日本
初公開年月 1957/09/17

外国文学の翻案による映画化を黒澤は何作か手がけている。

その全てが見事に日本の土壌に移し替えられ、原作が外国のものと想像もつかないものさえある。

『どん底』はそのひとつだ。

マクシム・ゴーリキー『どん底』

もともと黒澤はロシア文学と縁が深い。ドストエフスキー『白痴』の大胆な映画化も(大胆な失敗作とも呼ばれているが。)その実りのひとつ。

翻案作品でいちばんまずかったのは『乱』だった。晩年の大胆(これもまた大胆)な実験作だ。色彩への挑戦については『影武者』が十分に果たしている。ハムレットの翻案としては『蜘蛛巣城』という完璧とも言える傑作があった。その上での挑戦という、はじめから失敗が見えていながら挑戦する心意気には思い上がりがあった。やむにやまれぬ芸術家としての魂がそこにあったという評価はできると思う。

だが、『乱』はやはり失敗作としなければならない。

 

では、『どん底』はどうなのか。

ゴーリキーの『どん底』の映画化ならば黒澤を含め4作品ある。

中でもジャン・ルノワールジャン・ギャバンとルイ・ジェーヴェを主演にした36年作品は傑作のほまれ高い。ルノワールなので面白くないわけはないのだ。

ジャン・ルノワール監督『どん底』

この二人が扮するのは、泥棒と落ちぶれた貴族。黒澤の方だと三船と千秋が扮している。

ルノワールゴーリキーの原作を換骨奪胎し、このふたり中心のドラマに組み直してしまった。

 

ルノワール作品は95分、対して黒澤版『どん底』は137分と長尺。

ほぼゴーリキーの原作の内容をそっくり映像に移し替えたといっていい。それだけで奇跡的といってもいいが、日本人として造作された(作りなおされた)人物たちがいかにも日本の時代劇の中のキャラクターとして生きているのに驚く。

中村鴈治郎扮するケチな大家、自分勝手に欲望のまま愛人(三船の泥棒)をつくり裏切られるときたない報復に出てくるその妻お杉(山田五十鈴)。貧しさと欲望に振り回されいじめ抜かれるけなげなヒロイン的存在のかよ(香川京子)は、お杉の妹であり、泥棒が思いを寄せている。穴蔵のようなひとつ部屋に複数の男女が寄宿する場所でそこに住む者達は生活の苦しさの鬱憤をいかに晴らすかに汲々として生きているのだ。

東野英治郎の留吉(鋳掛屋)は、女房が肺の病で寝込んでいる。とうとう死んでしまった時には安堵するととともに心の支え棒を亡くしたような寂寥感を覚えてなにも手につかなくなる。

貧しいながら僅かな金が入ると酒盛りと博打に明け暮れ、いかさまにも余念が無い。

そして酒を飲めばいつしかアカペラのジャムセッションがはじまるのだ。

声だけで歌い踊る貧乏人たちのバイタリティが画面いっぱいに表現されて、黒澤のダイナミズムの面目躍如なのである。

七人の侍』で降りしきる豪雨の中で野盗と戦う侍たちのアクションの迫力がここではあたかも歌と踊りで再現される。

このジャムセッションは2回行われるが、藤木悠の卯之吉が鼓を鳴らし入れて穴蔵の住人たち揃い踏みの一大イベントに成長する。

ラストでそれが中断される。住人のひとりの自殺が宴会を止めてしまう。三井弘次(喜三郎)の「馬鹿野郎」のセリフでの締めくくりも原作に忠実だ。

 

最も注目すべきはお遍路嘉平の左卜全だろう。

宿を求めてやってくる嘉平は巧みな語りと住人たちの聞き役になって女達を中心に人気者になってしまう。穴蔵の平和を回復させる使者のような存在となるのだが、やがていかがわしい過去が想像され(想像だけだが)てまた放浪の旅に出て行ってしまうのだ。

嘉平が語るヒューマニズムこそ黒澤作品の全てに通底として流れる思想と位置づけられるかもしれない。

その嘉平がやがて居づらくなって消えていく。

そこはいかに解釈するべきだろうか?