映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

ヴィム・ヴェンダースの『緋文字』 1972

原作ではパールの瑞々しさがまぶしいばかりに描写されているが、ヴェンダースのパールも負けず劣らずに可憐だし、わがままぶりが愛おしいくらいだ。ヘスターのゼンタ・ベルガーも美しい。
ヴェンダースこんなに人間を美しく描ける作家だったかと見直す思いだ。
知らず識らずのうちにヴェンダースも若手ではなくなっていた。もはや古典にも近い。
なぜ、アメリカ文学のこんないかめしいくらいの古典を映像化しようとしたかわかないが、これはヴェンダースのドラマを紡ぐ才覚がもっとも発揮された作品といっていいのでは。
(逆に言えばヴェンダースはドラマチックとは無縁だから。そこは異色作としてもいいのだと思われる。)

物語の流れはほぼ原作通りである。
真紅のAー姦婦(adulteress)を示すーの文字を胸に刺繍した罪の女ヘスター・プリンがまず人々の目の前に現れる。
彼女は7歳のパールと半島の小屋に押し込められて外出を禁じられていたもののようだ。
禁じたのは教会、ということができるかもしれない。
というのはここは新大陸の荒れ地の一角であってセイラムと名付けられた土地なのだ。
ただ原作は、ちょうどパールをヘスターが産んだところから始まっている。罪の女が赤子を抱いており、それを人々が見上げている。この中には牧師ディムスデールがあり、旅から帰った医師チリングワースもいる。
この3人の関係がこの物語の全てといってもいい。パールが誰の子なのかをめぐるミステリーと原作を読むこともできるが、緋文字Aの印が付けられている時点でそれを裁いた者はすくなくとも知っているはずだ。
原作のヘスターは刺繍の腕前をもちそれを商売にして生計を立てる。一方で映画は総督が面倒を見ている。おそらく総督はパールの父を知っており庇うかたちでヘスター母子の面倒をみているという設定だと思われる。
ヘスターはその御礼のためか総督の衣服を自分で仕立てて献上するのだ。


森の中でへスターと牧師は対峙する。そこでヘスターは苦しみを逃れる方法を提示するのだ。
ヴェンダースは、セイラムの港に寄った船の乗組員に乗船の交渉をするところを見せた。これは原作にはない。その手続をするにもパールが役に立った。
そしてパールに牧師と仲良くするよぷにヘスターは促す。しかしここでは懐かない。
小説だと、牧師がパールの額にキスする。しかし、パールは懸命をそれを川で洗い流してしまう。
3人で船に乗ることをヘスターは考えていたが、ここにチリングワースが介入する。小説では、ヘスターをそっちのけで、牧師の乗船許可を船長に頼んでしまうのだが、映画は船に船医が必要となって依頼を受けるのだ。
しかし、その後の展開で牧師も医師も船に乗ることはなかった。
牧師が最後の説教の後に文字通り命を落とすからだ。
映画は(これも小説と違う工夫)自分の胸に刻まれたAの文字を公開した時に倒れるのだが、いったん息を吹き返す。そして船に乗る意欲を見せるのに、後に赴任してきた高齢の牧師がいて、ディムスデールの首を絞めて殺してしまうのだ。
そしてへスターとパールは船に乗って海へ。
小説は二人が航海に出たかどうかは曖昧な書き方をしている。
パールだけが遺産を受け継ぎ、ヨーロッパで暮らしていることを伝聞で語り締めくくりとなる。