映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア(1994)

レスタト。

名前をいつ告白するのかがポイントになる。

原作者が脚本を書いた本作だけに、アン・ライス自身がそれを十分に心得ていた。

だから映画では、ルイス(ブラッド・ピット)が「レスタト」と口走った時にサンディエゴというパリのヴァンパイアに狙われることになる。

ヴァンパイアがヴァンパイアを殺すことは罪であり死刑に値する。これはアン・ライスの決めたルールだ。そのためにレスタトを始末して旅に出たルイスとクローディア(キルステン・ダンスト)はその名を隠す必要があった。アルマンに好意を寄せ気を許したルイスはその名を告げてしまうのだ。

脚本を書くときにアン・ライスはこのことを明確に意識したはずだ。なぜなら原作では、そういう告白のシーンはないからだ。アルマンとの会話でルイスが不用意にレスタトの名を言ってしまうセリフがあるが、そのことをアルマンは指摘しないし、サンディエゴに聞かれることもない。小説では暗示で終わっている。

アルマン(アントニオ・バンデラス)はレスタトを知っていた。これもアン・ライスが映画オリジナルで与えたルールだ。

吸血鬼ものを扱うときに、それは小説でも映画でもことさらにルールが重要になる。

従来のヴァンパイアは、

  1. 鏡にうつらない。
  2. 十字架を嫌う。
  3. 心臓を杭で打つと灰になる。
  4. ニンニクが嫌い。
  5. 日光が嫌い。浴びると灰になる。

というものがあった。

このうち、アン・ライスが採用したのは五番目だけ。昼は棺で過ごすというライフスタイルは継承させている。

これにアンが加えたものに「動物の血でも良い」がある。ルイスが人殺しを嫌い、ネズミを漁るシーンがでてくる。レスタトによると、こういうのは臨時食料だそうで長い船旅などするときに代用するのだそうだ。

これはレスタトがかつてヨーロッパににいてアメリカに船でやってきたことを暗示するものだ。

レスタトはドラキュラと違ってロンドンではなくてニューオリンズに住み着いている。フランス移民としてやってきたという裏事情がある。だからかつてパリにいたとしてもおかしくない。

さて、レスタトを殺した後、クローディアとルイスは、旅の終着地、原作通りのセリフ

「完璧な一つの宇宙だった」 

と賞賛される市(まち)であるパリに居を落ち着ける。

ここでふたりは、アルマンとそしてヴァンパイア劇場に出会った。

ルイスと別れるため(それはルイスをアルマンに譲るためでもある)クローディアはマドレーヌを探し出す。永久に子供であるルイスは保護者が必要だから。

しかし、「レスタト」の名を口走ったおかげでサンディエゴたち一味に狙われてしまう。レスタトを殺したことが何故か知れてしまっている。

クローディア、マドレーヌは日光を浴びて灰になってしまう。サンディエゴたちに太陽の拷問部屋に入れられるのだ。この部屋の残酷さを描き出したのは、映画の功績だ。明かり取りの丸い天窓だけの石の部屋。そこから直射日光が飛び込んできて吸血鬼は怯える姿のままに灰にされる。なんとも優雅ではないか。優雅なる残酷。

もうひとつ映画のためにアン・ライスが与えたヴァンパイア・ルールがある。

 

レスタトをクローディアを殺すときに死者の血を飲ませるのだ。ヴァンパイアは死体の血に弱いという短所を与えてしまった。

原作では手強いレスタトは首を切られて血をしぼりだされて干からびた後に一度生き返る。しかし映画は死者の血のおかげで一発で解決である。

パリのアルマンと別れてアメリカに舞い戻ったルイスは、映画を見る。原作だとここはアルマンと二人で世界中を旅行するその最中である。

しかし映画のルイスはひとりで映画を見る。

  1. ムルナウサンライズ
  2. ムルナウ吸血鬼ノスフェラトゥ
  3. 風と共に去りぬ
  4. 『スーパーマン』

これで1977年までルイスがサンフランシスコに滞在したことが分かるのだ。

そしてインタビューアー(クリスチャン・スレーター)をヴァンパイアに変えるラスト。これでレスタト再登場だ。このラストがまた原作との違いとなる。

 

■全映画オンライン

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=2132

■wiki

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%98%8E%E3%81%91%E3%81%AE%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%A2

■吸血鬼映画、これがとどめだ

http://nanapi.jp/58279/

 

 

 

『のぼうの城』その1

「長親は図抜けて背が高い。脂肪がのっているため横幅もあり身体つきは大きいが、容貌魁偉であるとか、剛強であるとかいった印象を一切ひとに与えなかった」

というのがのぼう様と呼ばれる主人公、成田長親の外見だ。このように小説には書かれているが、野村萬斎のイメージとはおよそ違っていて、どちらかというと関取かなんかに近いのだ。

野村が良かったというのは、もしかしたら田植田楽踊りの達者という点だったのではないか。

およそ原作とは違ったチャラクター設定でのドラマが予想されるのだが、そのあたりのシナリオがどうなるのか興味は尽きない。

ひねりすぎて失速という可能性も十分に考えられ得るのじゃないか。

映画館に行くべきかどうか迷うところだ。

 

千年の愉楽のこと

こんなの書いていこうというのは、他でもない若松の死だ。

リスペクトし続けた映画人が不慮の死を遂げたのだ。

若松孝二は同郷のこころの師であった。

若松はどちらかというと原作のある映画作品は少ない。

思いつくのが北方謙三のハードボイルドを映画化した2本。(佐野史郎主演の方はVシネマだったかもしれない)

あえていえば『キャタピラー』もそうだが。

その若松最後の作品になったのが、中上健次原作の『千年の愉楽』だ。

わたしはまだこの原作を読んでいない。

来年公開される映画までの原作を読み、映画と小説との差異に思いをめぐらすことこそ、真の愉楽ではなかろうか。

そんなことでこのブローグを書き始めるのだ。