『のぼうの城』の2映画篇
秀吉はいろんな映画やドラマでいろんな役者が演っている。本作、市村正親でまず間違ってはいなかった。『テルマエ』みたいに風呂に入って尻を出しているのだが、それも混浴なのだが。一緒に湯に浸かる女は壇蜜がよかった、という後悔は否めない。のぼう=成田長親も別な役者がいれば本当はもっとよかったのだが。野村萬斎にはやはり不満が残るのだ。田楽踊りをうまく演じられるというだけで、おおよそ原作のイメージを正反対の人物にしてしまうのはいかがなものか。
『容疑者Xの献身』における醜男の天才数学者をまさかの堤真一に演じさせたという誤り以上に罪深いと私は考える。
まいうーの石塚英彦の方がよほどふさわしかった。石塚英彦が田楽踊りやったらもっと凄まじく面白かっただろう。
野村萬斎は監修すればいいのだから。でなければ野村萬斎が20kgほど体重を増やすべきだったのだ。
しかしこういうミスキャストにかかわらず本作は時代劇としての出来栄えはなかなかよい。
監督の2名はいい仕事をした。グッジョブ!
芦田愛菜は適役。
佐藤浩市も悪くない。
夏八木薫は丸くなりすぎ。
鈴木保奈美は目立たなすぎ。
尾野真千子、相当は適役。
原作者が脚本も書くとよくないというのが私の見解なのだが、本作については成功であった。
なにしろ小説よりも脚本が先にあったというのだから、そういう意味でも例外に属する。
上地雄輔は好演。
山田孝之は、『13人の刺客』とともに罪作りに終わった。尻出しも不要。
成宮寛貴、完全に役を取り違えた。
山口智充、下手くそ。
前田吟、無難。
平岳大、バカ。
平泉成、平凡。
西村雅彦、まちがいなし。
榮倉奈々、上上吉。映画に清涼感をもたらしている。
■全映画オンライン
007/カジノ・ロワイヤル(2006)
原作の発表が1953年だから、50年以上を隔てての(二度めの)映画化だ。
舞台も現在に置換えられて原作が書かれた頃にはなかった小道具が頻出する。
携帯電話とPCとかインターネットだ。
ボンドの愛車アストン・マーティンも最新式で登場するが、ヴェスパー救出のために
向かった先であっけなく大破してしまう。それからル・シッフルに捉えられて急所への
拷問になるプロットはそのままだ。
ル・シッフルの身分とか立場が変えられて国際テロ組織の資金運用で儲けている男
になっているが、今回はヘマをやって賭博でそれをとりもどそうとモンテネグロのカジ
ノ・ロワイヤルに現れる。
んだ上で、同社が製造した超大型旅客機をお披露目式で爆破して、巨額の利益を得
ようとしていた。」(Wikipedia)
それを阻止しようと英国財務省から資金援助されてボンドが乗り込むのだ。
「ソ連工作員であり、フランスの共産党系労組の会計主任であるル・シッフルは、おろ
かな男で、売春宿を経営するために組合の資金五千フランほど使いこんでいる。だが、
そのときも英国秘密情報部筋から悪人としてにらまれていない。」(『オクトパシー』解説
より)というのが、原作のル・シッフル。
映画では、「世界各国のテロ組織から預かった資金をマネーロンダリングしつつ運用し
ており、旅客機製造会社の株のカラ売りを仕込
映画ではル・シッフルが不正な株の運用するのを阻止するのもボンドとなっている。
マイアミ交際空港で初飛行する大型旅客機爆破をル・シッフルが計画し、旅客機製造
会社の株暴落を見込んでカラ売りしていたのだ。それがダメになって資金が焦げ付き、
おまけにテロ組織からも狙われるはめになる。
ちなみにだけど大型旅客機爆破計画をボンドが勘付いたのには、武器の売人のディ
ミトリオスおよびその妻ソランジュと接触できたためだし、その妻とは一夜の情事を過ごすことができた。この時までボンドはシーザーみたいな人妻好みで、ヴェスパー・リンドとの出会いはその趣味を変えさせるものとなる。こんなのも映画の脚色部分だ。
原作ではカジノ・ロワイヤルに滞在するボンドが爆破テロに狙われたり、ル・シッフル
の用心棒に仕込み銃で殺されそうになるエピソードがある。映画は、勝負中にボンド
が何者かに毒を盛られて危うく一命を取り留めるエピソードに置き換えられた。
服毒による暗殺からボンドを救うのがヴェスパー・リンド。アストン・マーティンにQが
仕込んが解毒装置をつかったところがケーブルが一本はずれていてショックが与え
られずボンドが気を失ったところにかけつけてケーブルを差し込んでボタンを押すと
めでたく覚醒となる。
演じるのは、エヴァ・グリーン。ちょっとアン・ハサウェイにも似てるけどもっと憂い顔
で品が良い。
リンドと結ばれて英国諜報部を辞めて結婚を考えるところも原作にある。
ただ原作のリンドはもっと身持ちが硬くて、ロシアにある恋人に操をささげつつこっち
が服毒死するのだ。
ボンドへは置き手紙で真相を告げて死んでいく。
そこいくとエヴァ・グリーンの死はかなり派手だ。有名なヴェニスのビル沈没シーン。
これはムーグ社がロンドン近郊のパインウッドスタジオに巨大水槽を設けて撮影した
ものだ。
最後まで裏切り女リンドを助けようとするボンドの前で、リンドは水中で美しい死を遂
げる。『狩人の夜』(1955)のような溺死美女だが、死ぬまでのプロセスまで見せる。
原作と違うといえばここには、007シリーズでその後宿命の敵ともいうべき犯罪組織
スメルシュが不在だ。ダニエル・クレイグの新シリーズが決心したことは、この古くか
らの敵と決別することだといっていい。
■全映画オンライン
「007/カジノ・ロワイヤル」原作篇
p109 創元社推理文庫 井上一夫訳
シュマンドフェールでもバカラでも、三度目の勝負というのが鉄壁の障害になるのだった。第一と第二の試練で勝つことはできても、三度目の勝負は大抵負けになる。
「カジノ・ロワイヤル」は二度映画化されている。
007は二度死に、バカラは3度めに負ける。ゴールドシップはジャパン・カップで沈んだ。
(というのは間違いで解説によれば、3度映画化されている)
「ゴードンのジンを三、ウォッカを一、キナ・リレのベルモットを二分の一の割合で。氷みたいに冷たくなるまでよくシェークして、それからレモンの皮をうすく大きく切ったやつをいれる。わかったね?」(引用p.68)
フランス共産党系労組の大物ル・シッフルとボンドがカジノ・ロワイヤルで対決。お互いの腹の子がなくなるまでバカラを繰り返す。
結果はかろうじてボンドの勝ち。
その間に女スパイと仲良くなる。ヴェスパー、それはボンド考案のオリジナルカクテルに命名の名誉を得る。
しかし、美貌の英国秘密情報員ヴェスパー・リンドは謎の女だ。
ボンドが受けるきんたまの拷問の後は、この女とボンドとの死闘だ。
きんたまの機能が失われているかどうかを試すことも兼ねて、リンドと関係を持とうとする。
ばかりか、結婚まで申し込もうとする。
しかしヴェスパーは簡単にボンドのものにはならない。愛しているというのに。
ヴェスパーには裏がある。
それはある意味、『プリンセス トヨトミ』の旭ゲーンズブールにも共通する。
敵側の女を愛するスパイ。
その無様さを乗り越えることで、真のジェイムズ・ボンドが誕生する。
それがシリーズ第1作の役割だ。
ル・シッフルを暗殺したスパイ暗殺団スメルシュはまだ健在である。
続編の敵を予告しての閉幕。
なんかこういうTVシリーズものあった気がする。洋物かなんか。
黒澤明式『どん底』(1957)
|
外国文学の翻案による映画化を黒澤は何作か手がけている。
その全てが見事に日本の土壌に移し替えられ、原作が外国のものと想像もつかないものさえある。
『どん底』はそのひとつだ。
もともと黒澤はロシア文学と縁が深い。ドストエフスキー『白痴』の大胆な映画化も(大胆な失敗作とも呼ばれているが。)その実りのひとつ。
翻案作品でいちばんまずかったのは『乱』だった。晩年の大胆(これもまた大胆)な実験作だ。色彩への挑戦については『影武者』が十分に果たしている。ハムレットの翻案としては『蜘蛛巣城』という完璧とも言える傑作があった。その上での挑戦という、はじめから失敗が見えていながら挑戦する心意気には思い上がりがあった。やむにやまれぬ芸術家としての魂がそこにあったという評価はできると思う。
だが、『乱』はやはり失敗作としなければならない。
では、『どん底』はどうなのか。
ゴーリキーの『どん底』の映画化ならば黒澤を含め4作品ある。
中でもジャン・ルノワールがジャン・ギャバンとルイ・ジェーヴェを主演にした36年作品は傑作のほまれ高い。ルノワールなので面白くないわけはないのだ。
この二人が扮するのは、泥棒と落ちぶれた貴族。黒澤の方だと三船と千秋が扮している。
ルノワールはゴーリキーの原作を換骨奪胎し、このふたり中心のドラマに組み直してしまった。
ルノワール作品は95分、対して黒澤版『どん底』は137分と長尺。
ほぼゴーリキーの原作の内容をそっくり映像に移し替えたといっていい。それだけで奇跡的といってもいいが、日本人として造作された(作りなおされた)人物たちがいかにも日本の時代劇の中のキャラクターとして生きているのに驚く。
中村鴈治郎扮するケチな大家、自分勝手に欲望のまま愛人(三船の泥棒)をつくり裏切られるときたない報復に出てくるその妻お杉(山田五十鈴)。貧しさと欲望に振り回されいじめ抜かれるけなげなヒロイン的存在のかよ(香川京子)は、お杉の妹であり、泥棒が思いを寄せている。穴蔵のようなひとつ部屋に複数の男女が寄宿する場所でそこに住む者達は生活の苦しさの鬱憤をいかに晴らすかに汲々として生きているのだ。
東野英治郎の留吉(鋳掛屋)は、女房が肺の病で寝込んでいる。とうとう死んでしまった時には安堵するととともに心の支え棒を亡くしたような寂寥感を覚えてなにも手につかなくなる。
貧しいながら僅かな金が入ると酒盛りと博打に明け暮れ、いかさまにも余念が無い。
そして酒を飲めばいつしかアカペラのジャムセッションがはじまるのだ。
声だけで歌い踊る貧乏人たちのバイタリティが画面いっぱいに表現されて、黒澤のダイナミズムの面目躍如なのである。
『七人の侍』で降りしきる豪雨の中で野盗と戦う侍たちのアクションの迫力がここではあたかも歌と踊りで再現される。
このジャムセッションは2回行われるが、藤木悠の卯之吉が鼓を鳴らし入れて穴蔵の住人たち揃い踏みの一大イベントに成長する。
ラストでそれが中断される。住人のひとりの自殺が宴会を止めてしまう。三井弘次(喜三郎)の「馬鹿野郎」のセリフでの締めくくりも原作に忠実だ。
最も注目すべきはお遍路嘉平の左卜全だろう。
宿を求めてやってくる嘉平は巧みな語りと住人たちの聞き役になって女達を中心に人気者になってしまう。穴蔵の平和を回復させる使者のような存在となるのだが、やがていかがわしい過去が想像され(想像だけだが)てまた放浪の旅に出て行ってしまうのだ。
嘉平が語るヒューマニズムこそ黒澤作品の全てに通底として流れる思想と位置づけられるかもしれない。
その嘉平がやがて居づらくなって消えていく。
そこはいかに解釈するべきだろうか?
『黒い雨』井伏鱒二作
まだ読んでいる途中だが、おそろしく密度が濃い作品だ。ほんの数ページの中に原爆が落ちた広島の犠牲者たちの模様がつぎつぎに描かれていく。
これを映画化したのは今村昌平だったが、いまさらながら今村のバイタリティの強さに驚くばかりだ。
今村昌平の最高傑作は初期の『果しなき欲望』だと個人的に決めてかかっているが、日本の土着な人たちのエロスと生きる執念を描いた鬼才が原爆文学(というより戦後日本文学の最高峰のひとつだろう)の傑作をなにもって映像化しようとしたのか、気になるところだ。
公開時に映画館で見なかったことが悔やまれもする。
「矢須子が『おじさん』と叫んで、何かにつまづいて前のめりになった。煙が散るのを待って見ると、その障害物は死んだ赤ん坊を抱きしめた死体であった。僕は先頭に立って、黒いものには細心の注意を払いながら進んだ。それでも何回か死人につまずいたり、熱いアスファルトに手をついたりした。一度、半焼死体に僕の靴が引っかかって、足の骨や腰骨などが三尺四方にも4尺四方にも散ったとき、僕は不覚にも「きゃあッ」と悲鳴をあげた。立ちすくんでしまった。」p100新潮文庫
東日本大震災を題材とした文学もこういう人間の真実が描かれるべきだと私は感じるのだ。
■今村昌平
インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア(1994)
レスタト。
名前をいつ告白するのかがポイントになる。
原作者が脚本を書いた本作だけに、アン・ライス自身がそれを十分に心得ていた。
だから映画では、ルイス(ブラッド・ピット)が「レスタト」と口走った時にサンディエゴというパリのヴァンパイアに狙われることになる。
ヴァンパイアがヴァンパイアを殺すことは罪であり死刑に値する。これはアン・ライスの決めたルールだ。そのためにレスタトを始末して旅に出たルイスとクローディア(キルステン・ダンスト)はその名を隠す必要があった。アルマンに好意を寄せ気を許したルイスはその名を告げてしまうのだ。
脚本を書くときにアン・ライスはこのことを明確に意識したはずだ。なぜなら原作では、そういう告白のシーンはないからだ。アルマンとの会話でルイスが不用意にレスタトの名を言ってしまうセリフがあるが、そのことをアルマンは指摘しないし、サンディエゴに聞かれることもない。小説では暗示で終わっている。
アルマン(アントニオ・バンデラス)はレスタトを知っていた。これもアン・ライスが映画オリジナルで与えたルールだ。
吸血鬼ものを扱うときに、それは小説でも映画でもことさらにルールが重要になる。
従来のヴァンパイアは、
- 鏡にうつらない。
- 十字架を嫌う。
- 心臓を杭で打つと灰になる。
- ニンニクが嫌い。
- 日光が嫌い。浴びると灰になる。
というものがあった。
このうち、アン・ライスが採用したのは五番目だけ。昼は棺で過ごすというライフスタイルは継承させている。
これにアンが加えたものに「動物の血でも良い」がある。ルイスが人殺しを嫌い、ネズミを漁るシーンがでてくる。レスタトによると、こういうのは臨時食料だそうで長い船旅などするときに代用するのだそうだ。
これはレスタトがかつてヨーロッパににいてアメリカに船でやってきたことを暗示するものだ。
レスタトはドラキュラと違ってロンドンではなくてニューオリンズに住み着いている。フランス移民としてやってきたという裏事情がある。だからかつてパリにいたとしてもおかしくない。
さて、レスタトを殺した後、クローディアとルイスは、旅の終着地、原作通りのセリフ
「完璧な一つの宇宙だった」
と賞賛される市(まち)であるパリに居を落ち着ける。
ここでふたりは、アルマンとそしてヴァンパイア劇場に出会った。
ルイスと別れるため(それはルイスをアルマンに譲るためでもある)クローディアはマドレーヌを探し出す。永久に子供であるルイスは保護者が必要だから。
しかし、「レスタト」の名を口走ったおかげでサンディエゴたち一味に狙われてしまう。レスタトを殺したことが何故か知れてしまっている。
クローディア、マドレーヌは日光を浴びて灰になってしまう。サンディエゴたちに太陽の拷問部屋に入れられるのだ。この部屋の残酷さを描き出したのは、映画の功績だ。明かり取りの丸い天窓だけの石の部屋。そこから直射日光が飛び込んできて吸血鬼は怯える姿のままに灰にされる。なんとも優雅ではないか。優雅なる残酷。
もうひとつ映画のためにアン・ライスが与えたヴァンパイア・ルールがある。
レスタトをクローディアを殺すときに死者の血を飲ませるのだ。ヴァンパイアは死体の血に弱いという短所を与えてしまった。
原作では手強いレスタトは首を切られて血をしぼりだされて干からびた後に一度生き返る。しかし映画は死者の血のおかげで一発で解決である。
パリのアルマンと別れてアメリカに舞い戻ったルイスは、映画を見る。原作だとここはアルマンと二人で世界中を旅行するその最中である。
しかし映画のルイスはひとりで映画を見る。
- ムルナウ『サンライズ』
- ムルナウ『吸血鬼ノスフェラトゥ』
- 『風と共に去りぬ』
- 『スーパーマン』
これで1977年までルイスがサンフランシスコに滞在したことが分かるのだ。
そしてインタビューアー(クリスチャン・スレーター)をヴァンパイアに変えるラスト。これでレスタト再登場だ。このラストがまた原作との違いとなる。
■全映画オンライン
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=2132
■wiki
■吸血鬼映画、これがとどめだ
『のぼうの城』その1
「長親は図抜けて背が高い。脂肪がのっているため横幅もあり身体つきは大きいが、容貌魁偉であるとか、剛強であるとかいった印象を一切ひとに与えなかった」
というのがのぼう様と呼ばれる主人公、成田長親の外見だ。このように小説には書かれているが、野村萬斎のイメージとはおよそ違っていて、どちらかというと関取かなんかに近いのだ。
野村が良かったというのは、もしかしたら田植田楽踊りの達者という点だったのではないか。
およそ原作とは違ったチャラクター設定でのドラマが予想されるのだが、そのあたりのシナリオがどうなるのか興味は尽きない。
ひねりすぎて失速という可能性も十分に考えられ得るのじゃないか。
映画館に行くべきかどうか迷うところだ。