『恐るべき子供たち』(1950)LES ENFANTS TERRIBLES
鏡は不吉さの契機。
「鏡が彼女の心を掻き乱した。エリザベートは眼を伏せて、薄気味の悪い手を洗った。」
このマクベス夫人のような冷徹な仕草は、もちろん映画でも表現される。
コクトーがオマージュした『ポールとヴィルジニー』は無辜な男女が世俗の汚れに侵されて死んでいく物語だ。
フランス島という隔離された自然の大地で純粋に育まれた魂がやがて運命の悲劇を迎える。
ジャン・コクトーはポールとエリザベスにもっと残酷な運命を与えるのだ。
ポールとヴィルジニーと違いふたりは孤児だ。
世間から隔離された蚕の繭の中のような部屋でののしりあい傷つけあうのだ。
ポールの同級生ダルジュロスはもっと冷酷で悪の権化のようだ。
雪球を投げ合う雪合戦のイメージではなく、雪を掴んで撒き散らしあいをする。
その中で石詰め雪球を確実に狙い撃ちするのが、ダルジュロスだ。
狙われるのはポール。
その日から、ダルジュロスもポールを学校を遠ざかっていく。
偶然にもダルジュロスと酷似するために一緒に住むようになるのが、アガート。
エリザベスが一念発起して働いて稼ぐためにマネキンになるが、アガートはマネキン仲間であり、しかも孤児なのだ。「コカイン中毒の夫婦のあいだにできた娘だった。」
気性のやさしい友人のジュラールも参加する。
ベスは結婚するが、ミカエルは自動車事故で死んでしまう。
映画ではひとつだけ残った車輪が回り続けている。まるで『激突!』と正反対ではないか!
しかし原作のミカエルはマフラーがきつくからまって窒息死するのだ。
ミカエルは金持ちで、エトワール広場の邸宅をエリザベスたちに遺したのだ。
そこから四人のサンクチュアリ物語がはじまる。
アパートからすこしづつ身の回り品が集められ、ガラクタに囲まれたような状態でポールは寝床の中で過ごす。
その中でポールは我を失い、アガートに恋文を出す。だが、受け取るのは自分だ。
そのためにベスはポールのこころを知ってしまい、そしてまんまとアガートをジュラールと結びつけてしまう。
ベスは自分の罪に耐えられなくなったものか、ラストはピストル自殺という衝撃的な終わりを迎える。
原作のようなダルジュロスの毒玉といったものは出てこない。
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『カラスの親指』(2012)
まず原作について、読書メーター
「カラスの親指」メイキング&インタビュー集 - YouTube
最初に競馬場でサンタマリアをだます詐欺、ここが原作と違う。
原作だと銀行での詐欺だ。
流れはほぼほぼ同じだが、ディテールが違っている。というか省いてしまっている。
2時間20分に原作のすべて詰め込むのは無理な話だ。
村上ショージの入川が阿部寛の武ちゃんと出会う鍵屋のドア修理のエピソードがない。
原作がそもそもホームドラマめいたゆるい雰囲気に満ち満ちており、それとヤミ金組織と対決するコンゲームの後半との緊張感の対象があるんだが、映画はコンゲームの緊張感も省いてしまった。
ヤミ金をだまして大金せしめるときにやひろまひろの入れ替えトリックを使うわけだが、映画はわかりにくい。
トリックを緻密に描くのではなく人間ドラマにしてしまったのだ。
鶴見辰吾の演技はすごみがあっていいけど、あっさり騙されすぎて拍子抜けだ。
さいごにすべて○○の仕組んだことだと判明するけど、原作がそうなっているので付け足したのかと思えるぐらいあっさりしてしている。
そこから振り返るとまひろがクレープ背広にくっつけて財布スルのを目撃して、それを庇うことで村上ショージ阿部寛と出来上がる関係、それもまた○○の演出というにはなんか無理を感じるのだ。都合良すぎではと思えてくる。
村上ショージがヤミ金事務所に盗聴器捜査で踏み込んで、携帯電話に仕掛けられてると指摘するところはいいけど、「あと四台もすべてです」というセリフはやばい気がする。
プリペイド携帯が合計九台というのはどこで知ったのだろうか?
ヤミ金の兄ちゃんに指摘されたらどうするのか?
そこじゃなくて、能年玲奈が若すぎるという間抜けな指摘がはいって、あまちゃん娘がうまく切り抜けるんだけど、まさか本当の娘だったとは!? というのが落ちであった。
能年玲奈はなにかの新人賞をこの映画で獲得しているが、それは納得できるレベルだ。
石原さとみの方がクレジットでは先に出てるし役者としても先輩だけど、むしろ能年を引き立てるような演技でこれもまた好感が持てる。原作だとやひろはあまり存在感がないが、石原はそれにリアルな存在感を与えた。
小柳友の寛太郎は、原作だと奇術師である。時計職人ではなく。原作通りの方が本当はコンゲームに花を添えられると思うのだけど。村上ショージの地元が仙台だという設定、これも原作になかったんじゃないかな。
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「プリンセス・トヨトミ」
万城目学原作
p389文春文庫
円の中央に浮かぶひょうたんの図柄を、竹中は驚きと懐かしさとともに迎えた。それは三十五年ぶりに見る風景だった」
はじめに大阪城が赤く染まる。
次に要所要所にひょうたんが置かれる。
p391
「長浜ビルにひょうたんを見たとき、黒田の碁盤の上にひょうたんを置く」
「碁盤の上にひょうたんを見たとき、『場所』にそのひょうたんを置く」
幼なじみ二人は、立派に彼らの役割を果たしたわけだ。
「場所」というのはいろいろあって、
p394
速水にとっての「場所」とは、この渡し船である。
ひょうたんの大発生から事件ははじまる。それまでは準備段階だったといえる。つまり580ページあるうちの約3分の2程が準備作業だったわけだ。
それから数字だ。「16」。
これらは合図だ。35年前に発生した戦争を再度行うという宣戦布告というようなものだ。
合図は、5月31日16時に、大阪が全停止するという予告であった。
35年前とは松平検査官が4歳の時だった。
その時、赤く染まった大阪城を松平は偶然目撃したのだ。
菊池桃子には悪いが戦国時代のシーンは不要だったと思う。見どころは人っ子ひとりいなくなった大阪の街なかをカラスの鳴き声聞きながら綾瀬が豊満な乳房ゆすりながら走り回るところ。
原作との違いは大きい。
ただ大筋の流れは踏まえている。ディテールを変えながらも本質をつかんだ作り方だ。
まず、松平がアイス好き。しかしモナカアイスは映画には一度も出てこない。
鳥居は決してたこ焼きを地面に落とさない。どころか、原作ではたこ焼き食べるシーンすらない。せいぜいお好み焼き。
総理大臣の息子が女装趣味というのは何を暗示するのか知らないが、男勝りの茶子も原作そのまま。
チビデブの独身中年、鳥居が綾瀬にすりかえられ、ゲーンズブールも原作だとこっちが長身金髪のフランス人ハーフ女性なのだが、設定そのまま、名前そのままで岡田将生が演るというのは、原作しらないと分かりにくいのではと思えた。この岡田、映画中では出番も少なく存在感的に必要性薄弱とも思えたが、大阪国にもともと深く関わって擁護、独立をたくらむ人物の顔を大詰めになってようやく垣間見せる。とってつけた感もなきにしもあらずだし、フランス人ハーフの意味も別にないのだが。
ただ、大阪国のあり方については原作の方がそもそもぼんやりしていて説得力に欠けるうらみがある。大阪人が内に秘めた野望を受け継いでいる秘密結社集団が大阪国なわけだが、大阪人というのはこういう隠し事できる性格じゃないのじゃないかという仮説が原作の大阪国を現実味ないものにしちゃっているのだ。
映画での岡田の大詰めでの活躍(それもあんまりパッとしないのだけど)はそんな原作の薄弱なところを埋めるものだった。
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『組織』(1973)
原作者の脚本でよくできた例外の作品。まさにこれ。
原作だと組織のいろんな拠点に襲いかかるのが、パーカーの知り合いの犯罪者たちとなっている。映画はパーカーではなく、アール・マクリンと名を変えている。ウェストレイクが許さなかったからだ。ウェストレイク自身、リチャード・スタークと名を変えている。
原作は、「人狩り」→「逃亡の顔」→「組織」→「弔いの像」と連続したストーリーを背景としたシリーズものだ。主人公悪党パーカー対組織(アウトフィット)という一連のストーリーが。
その中から前後を無視する形で『組織』のところだけ取り出して脚本にしているので、前後の切り口をならす必要があって、そこが映画のオリジナルとなっている。
パーカーではなくマクリンだけ主人公がそもそも違う。パーカーは禿じゃない。
組織の銀行の襲ってしまったために報復として殺し屋がやってくる。そんなところから映画ははじまる。まずマクリンの兄が殺された。相棒のコディ(ドン・ベイカー)の店にもやってくるが運良く逃れた。そしてマクリンは、返り討ちにする。
パーカーが女といてアウトフィットが雇った殺し屋に襲われるのは同じだ。一緒にいるエリザベス・ハーローは、映画でカレン・ブラックが演じたマクリンの情婦の名も同じだが、小説のハーローはパーカーのピストルを持ってその場から疾走してしまう。
そのピストルが次作『弔いの像』につながる布石になるのだが、映画のカレン・ブラックは終始マクリンにつきまとい、組織を攻撃する時にも行動を共にしてドライバーの役割をする。どちらかというと悪党パーカーシリーズ第1作『人狩り』に出てくるパーカーの妻
に近い。一度はマクリンを裏切るが刑務所を出てくしたると出迎えて借りていたキャビンに案内する。そこに殺し屋がやってくるのだ。マクリンは殺そうとするが、ベスが命乞いして助けてやる。そもそもベスがキャビンの手配してもらったつての先から居場所がもれて殺し屋がやってきたのだ。
殺し屋の自白で依頼主を調べ、かれらがポーカーをしているところを襲いにいくのは、原作通り。それから飲み屋を経営する組織の一角を攻撃しにいくところも同じだ。この時点でマクリンは相棒コディとベスと行動を共にするが、原作では一人だ。
一匹狼のパーカーに家族など居るはずもないが、マクリンには兄が有り、一緒に銀行を襲って組織に殺される。
その報復でマクリンは動き出す。
コディは原作のハンディ・マッケイに当たるのだと思う。
組織の親玉の居場所を突き止めたマクリンたちがラストでボス宅に討ち入りに向かう。まさにヤクザ映画のラストと同じだ。
ベスが流れ弾で殺されたその復讐の意味もある。
コディが撃たれて、助けながらの脱出劇は、まるで『羊たちの沈黙』だ。または『レノン』。
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『のぼうの城』の2映画篇
秀吉はいろんな映画やドラマでいろんな役者が演っている。本作、市村正親でまず間違ってはいなかった。『テルマエ』みたいに風呂に入って尻を出しているのだが、それも混浴なのだが。一緒に湯に浸かる女は壇蜜がよかった、という後悔は否めない。のぼう=成田長親も別な役者がいれば本当はもっとよかったのだが。野村萬斎にはやはり不満が残るのだ。田楽踊りをうまく演じられるというだけで、おおよそ原作のイメージを正反対の人物にしてしまうのはいかがなものか。
『容疑者Xの献身』における醜男の天才数学者をまさかの堤真一に演じさせたという誤り以上に罪深いと私は考える。
まいうーの石塚英彦の方がよほどふさわしかった。石塚英彦が田楽踊りやったらもっと凄まじく面白かっただろう。
野村萬斎は監修すればいいのだから。でなければ野村萬斎が20kgほど体重を増やすべきだったのだ。
しかしこういうミスキャストにかかわらず本作は時代劇としての出来栄えはなかなかよい。
監督の2名はいい仕事をした。グッジョブ!
芦田愛菜は適役。
佐藤浩市も悪くない。
夏八木薫は丸くなりすぎ。
鈴木保奈美は目立たなすぎ。
尾野真千子、相当は適役。
原作者が脚本も書くとよくないというのが私の見解なのだが、本作については成功であった。
なにしろ小説よりも脚本が先にあったというのだから、そういう意味でも例外に属する。
上地雄輔は好演。
山田孝之は、『13人の刺客』とともに罪作りに終わった。尻出しも不要。
成宮寛貴、完全に役を取り違えた。
山口智充、下手くそ。
前田吟、無難。
平岳大、バカ。
平泉成、平凡。
西村雅彦、まちがいなし。
榮倉奈々、上上吉。映画に清涼感をもたらしている。
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007/カジノ・ロワイヤル(2006)
原作の発表が1953年だから、50年以上を隔てての(二度めの)映画化だ。
舞台も現在に置換えられて原作が書かれた頃にはなかった小道具が頻出する。
携帯電話とPCとかインターネットだ。
ボンドの愛車アストン・マーティンも最新式で登場するが、ヴェスパー救出のために
向かった先であっけなく大破してしまう。それからル・シッフルに捉えられて急所への
拷問になるプロットはそのままだ。
ル・シッフルの身分とか立場が変えられて国際テロ組織の資金運用で儲けている男
になっているが、今回はヘマをやって賭博でそれをとりもどそうとモンテネグロのカジ
ノ・ロワイヤルに現れる。
んだ上で、同社が製造した超大型旅客機をお披露目式で爆破して、巨額の利益を得
ようとしていた。」(Wikipedia)
それを阻止しようと英国財務省から資金援助されてボンドが乗り込むのだ。
「ソ連工作員であり、フランスの共産党系労組の会計主任であるル・シッフルは、おろ
かな男で、売春宿を経営するために組合の資金五千フランほど使いこんでいる。だが、
そのときも英国秘密情報部筋から悪人としてにらまれていない。」(『オクトパシー』解説
より)というのが、原作のル・シッフル。
映画では、「世界各国のテロ組織から預かった資金をマネーロンダリングしつつ運用し
ており、旅客機製造会社の株のカラ売りを仕込
映画ではル・シッフルが不正な株の運用するのを阻止するのもボンドとなっている。
マイアミ交際空港で初飛行する大型旅客機爆破をル・シッフルが計画し、旅客機製造
会社の株暴落を見込んでカラ売りしていたのだ。それがダメになって資金が焦げ付き、
おまけにテロ組織からも狙われるはめになる。
ちなみにだけど大型旅客機爆破計画をボンドが勘付いたのには、武器の売人のディ
ミトリオスおよびその妻ソランジュと接触できたためだし、その妻とは一夜の情事を過ごすことができた。この時までボンドはシーザーみたいな人妻好みで、ヴェスパー・リンドとの出会いはその趣味を変えさせるものとなる。こんなのも映画の脚色部分だ。
原作ではカジノ・ロワイヤルに滞在するボンドが爆破テロに狙われたり、ル・シッフル
の用心棒に仕込み銃で殺されそうになるエピソードがある。映画は、勝負中にボンド
が何者かに毒を盛られて危うく一命を取り留めるエピソードに置き換えられた。
服毒による暗殺からボンドを救うのがヴェスパー・リンド。アストン・マーティンにQが
仕込んが解毒装置をつかったところがケーブルが一本はずれていてショックが与え
られずボンドが気を失ったところにかけつけてケーブルを差し込んでボタンを押すと
めでたく覚醒となる。
演じるのは、エヴァ・グリーン。ちょっとアン・ハサウェイにも似てるけどもっと憂い顔
で品が良い。
リンドと結ばれて英国諜報部を辞めて結婚を考えるところも原作にある。
ただ原作のリンドはもっと身持ちが硬くて、ロシアにある恋人に操をささげつつこっち
が服毒死するのだ。
ボンドへは置き手紙で真相を告げて死んでいく。
そこいくとエヴァ・グリーンの死はかなり派手だ。有名なヴェニスのビル沈没シーン。
これはムーグ社がロンドン近郊のパインウッドスタジオに巨大水槽を設けて撮影した
ものだ。
最後まで裏切り女リンドを助けようとするボンドの前で、リンドは水中で美しい死を遂
げる。『狩人の夜』(1955)のような溺死美女だが、死ぬまでのプロセスまで見せる。
原作と違うといえばここには、007シリーズでその後宿命の敵ともいうべき犯罪組織
スメルシュが不在だ。ダニエル・クレイグの新シリーズが決心したことは、この古くか
らの敵と決別することだといっていい。
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「007/カジノ・ロワイヤル」原作篇
p109 創元社推理文庫 井上一夫訳
シュマンドフェールでもバカラでも、三度目の勝負というのが鉄壁の障害になるのだった。第一と第二の試練で勝つことはできても、三度目の勝負は大抵負けになる。
「カジノ・ロワイヤル」は二度映画化されている。
007は二度死に、バカラは3度めに負ける。ゴールドシップはジャパン・カップで沈んだ。
(というのは間違いで解説によれば、3度映画化されている)
「ゴードンのジンを三、ウォッカを一、キナ・リレのベルモットを二分の一の割合で。氷みたいに冷たくなるまでよくシェークして、それからレモンの皮をうすく大きく切ったやつをいれる。わかったね?」(引用p.68)
フランス共産党系労組の大物ル・シッフルとボンドがカジノ・ロワイヤルで対決。お互いの腹の子がなくなるまでバカラを繰り返す。
結果はかろうじてボンドの勝ち。
その間に女スパイと仲良くなる。ヴェスパー、それはボンド考案のオリジナルカクテルに命名の名誉を得る。
しかし、美貌の英国秘密情報員ヴェスパー・リンドは謎の女だ。
ボンドが受けるきんたまの拷問の後は、この女とボンドとの死闘だ。
きんたまの機能が失われているかどうかを試すことも兼ねて、リンドと関係を持とうとする。
ばかりか、結婚まで申し込もうとする。
しかしヴェスパーは簡単にボンドのものにはならない。愛しているというのに。
ヴェスパーには裏がある。
それはある意味、『プリンセス トヨトミ』の旭ゲーンズブールにも共通する。
敵側の女を愛するスパイ。
その無様さを乗り越えることで、真のジェイムズ・ボンドが誕生する。
それがシリーズ第1作の役割だ。
ル・シッフルを暗殺したスパイ暗殺団スメルシュはまだ健在である。
続編の敵を予告しての閉幕。
なんかこういうTVシリーズものあった気がする。洋物かなんか。