映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『関ヶ原』(2017)

さすが原田監督も映画少年のはしくれ、秀吉の死のシーンが『市民ケーン』だった。
布団の中で息を引き取った滝藤秀吉の手から手毬が転がり落ち、それを岡田三成が拾い上げる。
そこからすべてのドラマははじまる。「ローズバッド」
市民ケーン』と比べるといささかイントロが長すぎる恨みがある。

豊臣秀次の失脚について、NHK真田丸」でしつこく描かれていたが、司馬の原作には出て来ない。
原田は関係者一同の引責処刑の様子を描き、その前の場面では最上家の駒姫について三成が命乞いをするところを入れた。三条河原での処刑の際に最上家の忍びである初芽が処刑人に飛びかかって抵抗をする。またそこに居合わせた浪人の島左近に目をとめた三成が、島を追いかけて愛人(?)の壇蜜の屋敷までついていく。
壇蜜が演じたのが出家して妙善、俗名を椿井妙(つばいたえ)という。原作だと中巻の頭の方に出てくる。尼さんになってからも愛人とはおかしいだろうが、いかにも壇蜜らしい艶めかしい配役だ。原作だと三成に追われるのではなくて、大阪の商家に出没して情報をかぎまわっていた左近が家康方の刺客に襲われて逃げ込むのが、昔なじみの妙善の庵なのだ。どこまで本当のことかは分からない。
映画ではそこを逆手に取って三成左近の出会いの場にしてしまった。それはそれで悪くない。
で、逆手といえば初芽もそうだ。とかく男臭くなりがちな合戦物のドラマの中で砂漠のオアシスのような潤いの場面を設けるために司馬が創作した(と思われる)初芽もそもそもが実在じゃないことをよいことに映画はアクションもこなす伊賀者という設定にまで拡張した。原作では初芽の局という藤堂家ゆかりの女性だ。淀殿に仕えていたのを自らの希望で三成の妾となった。もともと藤堂家から三成を監視すようにいわれていた、いわば忍びだったのだが、三成に惹かれるにつれてその役目を捨ててしまう。そこで司馬が描いたのは戦国時代の「恋」だった。
三成という人物を小説ではなかなかの食わせ物と描いており、人に好かれるような気性ではない。むしろ嫌われ者だ。
家康もその点同じであって、天下を取ろうとする悪党という面が強調されている。
関ケ原とはこの悪党二人のぶつかり合いだった。

原田の映画でも初芽三成は恋人として描かれる。映画は、三成=大一大万大吉=正義であって、その正義が敗れるという悲痛を強調した。故人となった主人の意志を貫こうとして滅びていく三成に哀愁がある。
司馬の原作では、関ヶ原の結果を受けて、300年後に倒幕に動く諸藩の動機にまで言及している。
原田は三成の戦いを赤穂浪士の前哨戦のような敗者への同情という日本人的な感情に集約しようとしている。

さらに、さすがに三成が関ヶ原の戦いの時に下痢腹で奔走していたことはとらなかった。真田丸山本耕史はよく厠に通っていたけどね。