「プリンセス・トヨトミ」
万城目学原作
p389文春文庫
円の中央に浮かぶひょうたんの図柄を、竹中は驚きと懐かしさとともに迎えた。それは三十五年ぶりに見る風景だった」
はじめに大阪城が赤く染まる。
次に要所要所にひょうたんが置かれる。
p391
「長浜ビルにひょうたんを見たとき、黒田の碁盤の上にひょうたんを置く」
「碁盤の上にひょうたんを見たとき、『場所』にそのひょうたんを置く」
幼なじみ二人は、立派に彼らの役割を果たしたわけだ。
「場所」というのはいろいろあって、
p394
速水にとっての「場所」とは、この渡し船である。
ひょうたんの大発生から事件ははじまる。それまでは準備段階だったといえる。つまり580ページあるうちの約3分の2程が準備作業だったわけだ。
それから数字だ。「16」。
これらは合図だ。35年前に発生した戦争を再度行うという宣戦布告というようなものだ。
合図は、5月31日16時に、大阪が全停止するという予告であった。
35年前とは松平検査官が4歳の時だった。
その時、赤く染まった大阪城を松平は偶然目撃したのだ。
菊池桃子には悪いが戦国時代のシーンは不要だったと思う。見どころは人っ子ひとりいなくなった大阪の街なかをカラスの鳴き声聞きながら綾瀬が豊満な乳房ゆすりながら走り回るところ。
原作との違いは大きい。
ただ大筋の流れは踏まえている。ディテールを変えながらも本質をつかんだ作り方だ。
まず、松平がアイス好き。しかしモナカアイスは映画には一度も出てこない。
鳥居は決してたこ焼きを地面に落とさない。どころか、原作ではたこ焼き食べるシーンすらない。せいぜいお好み焼き。
総理大臣の息子が女装趣味というのは何を暗示するのか知らないが、男勝りの茶子も原作そのまま。
チビデブの独身中年、鳥居が綾瀬にすりかえられ、ゲーンズブールも原作だとこっちが長身金髪のフランス人ハーフ女性なのだが、設定そのまま、名前そのままで岡田将生が演るというのは、原作しらないと分かりにくいのではと思えた。この岡田、映画中では出番も少なく存在感的に必要性薄弱とも思えたが、大阪国にもともと深く関わって擁護、独立をたくらむ人物の顔を大詰めになってようやく垣間見せる。とってつけた感もなきにしもあらずだし、フランス人ハーフの意味も別にないのだが。
ただ、大阪国のあり方については原作の方がそもそもぼんやりしていて説得力に欠けるうらみがある。大阪人が内に秘めた野望を受け継いでいる秘密結社集団が大阪国なわけだが、大阪人というのはこういう隠し事できる性格じゃないのじゃないかという仮説が原作の大阪国を現実味ないものにしちゃっているのだ。
映画での岡田の大詰めでの活躍(それもあんまりパッとしないのだけど)はそんな原作の薄弱なところを埋めるものだった。
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『組織』(1973)
原作者の脚本でよくできた例外の作品。まさにこれ。
原作だと組織のいろんな拠点に襲いかかるのが、パーカーの知り合いの犯罪者たちとなっている。映画はパーカーではなく、アール・マクリンと名を変えている。ウェストレイクが許さなかったからだ。ウェストレイク自身、リチャード・スタークと名を変えている。
原作は、「人狩り」→「逃亡の顔」→「組織」→「弔いの像」と連続したストーリーを背景としたシリーズものだ。主人公悪党パーカー対組織(アウトフィット)という一連のストーリーが。
その中から前後を無視する形で『組織』のところだけ取り出して脚本にしているので、前後の切り口をならす必要があって、そこが映画のオリジナルとなっている。
パーカーではなくマクリンだけ主人公がそもそも違う。パーカーは禿じゃない。
組織の銀行の襲ってしまったために報復として殺し屋がやってくる。そんなところから映画ははじまる。まずマクリンの兄が殺された。相棒のコディ(ドン・ベイカー)の店にもやってくるが運良く逃れた。そしてマクリンは、返り討ちにする。
パーカーが女といてアウトフィットが雇った殺し屋に襲われるのは同じだ。一緒にいるエリザベス・ハーローは、映画でカレン・ブラックが演じたマクリンの情婦の名も同じだが、小説のハーローはパーカーのピストルを持ってその場から疾走してしまう。
そのピストルが次作『弔いの像』につながる布石になるのだが、映画のカレン・ブラックは終始マクリンにつきまとい、組織を攻撃する時にも行動を共にしてドライバーの役割をする。どちらかというと悪党パーカーシリーズ第1作『人狩り』に出てくるパーカーの妻
に近い。一度はマクリンを裏切るが刑務所を出てくしたると出迎えて借りていたキャビンに案内する。そこに殺し屋がやってくるのだ。マクリンは殺そうとするが、ベスが命乞いして助けてやる。そもそもベスがキャビンの手配してもらったつての先から居場所がもれて殺し屋がやってきたのだ。
殺し屋の自白で依頼主を調べ、かれらがポーカーをしているところを襲いにいくのは、原作通り。それから飲み屋を経営する組織の一角を攻撃しにいくところも同じだ。この時点でマクリンは相棒コディとベスと行動を共にするが、原作では一人だ。
一匹狼のパーカーに家族など居るはずもないが、マクリンには兄が有り、一緒に銀行を襲って組織に殺される。
その報復でマクリンは動き出す。
コディは原作のハンディ・マッケイに当たるのだと思う。
組織の親玉の居場所を突き止めたマクリンたちがラストでボス宅に討ち入りに向かう。まさにヤクザ映画のラストと同じだ。
ベスが流れ弾で殺されたその復讐の意味もある。
コディが撃たれて、助けながらの脱出劇は、まるで『羊たちの沈黙』だ。または『レノン』。
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『のぼうの城』の2映画篇
秀吉はいろんな映画やドラマでいろんな役者が演っている。本作、市村正親でまず間違ってはいなかった。『テルマエ』みたいに風呂に入って尻を出しているのだが、それも混浴なのだが。一緒に湯に浸かる女は壇蜜がよかった、という後悔は否めない。のぼう=成田長親も別な役者がいれば本当はもっとよかったのだが。野村萬斎にはやはり不満が残るのだ。田楽踊りをうまく演じられるというだけで、おおよそ原作のイメージを正反対の人物にしてしまうのはいかがなものか。
『容疑者Xの献身』における醜男の天才数学者をまさかの堤真一に演じさせたという誤り以上に罪深いと私は考える。
まいうーの石塚英彦の方がよほどふさわしかった。石塚英彦が田楽踊りやったらもっと凄まじく面白かっただろう。
野村萬斎は監修すればいいのだから。でなければ野村萬斎が20kgほど体重を増やすべきだったのだ。
しかしこういうミスキャストにかかわらず本作は時代劇としての出来栄えはなかなかよい。
監督の2名はいい仕事をした。グッジョブ!
芦田愛菜は適役。
佐藤浩市も悪くない。
夏八木薫は丸くなりすぎ。
鈴木保奈美は目立たなすぎ。
尾野真千子、相当は適役。
原作者が脚本も書くとよくないというのが私の見解なのだが、本作については成功であった。
なにしろ小説よりも脚本が先にあったというのだから、そういう意味でも例外に属する。
上地雄輔は好演。
山田孝之は、『13人の刺客』とともに罪作りに終わった。尻出しも不要。
成宮寛貴、完全に役を取り違えた。
山口智充、下手くそ。
前田吟、無難。
平岳大、バカ。
平泉成、平凡。
西村雅彦、まちがいなし。
榮倉奈々、上上吉。映画に清涼感をもたらしている。
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007/カジノ・ロワイヤル(2006)
原作の発表が1953年だから、50年以上を隔てての(二度めの)映画化だ。
舞台も現在に置換えられて原作が書かれた頃にはなかった小道具が頻出する。
携帯電話とPCとかインターネットだ。
ボンドの愛車アストン・マーティンも最新式で登場するが、ヴェスパー救出のために
向かった先であっけなく大破してしまう。それからル・シッフルに捉えられて急所への
拷問になるプロットはそのままだ。
ル・シッフルの身分とか立場が変えられて国際テロ組織の資金運用で儲けている男
になっているが、今回はヘマをやって賭博でそれをとりもどそうとモンテネグロのカジ
ノ・ロワイヤルに現れる。
んだ上で、同社が製造した超大型旅客機をお披露目式で爆破して、巨額の利益を得
ようとしていた。」(Wikipedia)
それを阻止しようと英国財務省から資金援助されてボンドが乗り込むのだ。
「ソ連工作員であり、フランスの共産党系労組の会計主任であるル・シッフルは、おろ
かな男で、売春宿を経営するために組合の資金五千フランほど使いこんでいる。だが、
そのときも英国秘密情報部筋から悪人としてにらまれていない。」(『オクトパシー』解説
より)というのが、原作のル・シッフル。
映画では、「世界各国のテロ組織から預かった資金をマネーロンダリングしつつ運用し
ており、旅客機製造会社の株のカラ売りを仕込
映画ではル・シッフルが不正な株の運用するのを阻止するのもボンドとなっている。
マイアミ交際空港で初飛行する大型旅客機爆破をル・シッフルが計画し、旅客機製造
会社の株暴落を見込んでカラ売りしていたのだ。それがダメになって資金が焦げ付き、
おまけにテロ組織からも狙われるはめになる。
ちなみにだけど大型旅客機爆破計画をボンドが勘付いたのには、武器の売人のディ
ミトリオスおよびその妻ソランジュと接触できたためだし、その妻とは一夜の情事を過ごすことができた。この時までボンドはシーザーみたいな人妻好みで、ヴェスパー・リンドとの出会いはその趣味を変えさせるものとなる。こんなのも映画の脚色部分だ。
原作ではカジノ・ロワイヤルに滞在するボンドが爆破テロに狙われたり、ル・シッフル
の用心棒に仕込み銃で殺されそうになるエピソードがある。映画は、勝負中にボンド
が何者かに毒を盛られて危うく一命を取り留めるエピソードに置き換えられた。
服毒による暗殺からボンドを救うのがヴェスパー・リンド。アストン・マーティンにQが
仕込んが解毒装置をつかったところがケーブルが一本はずれていてショックが与え
られずボンドが気を失ったところにかけつけてケーブルを差し込んでボタンを押すと
めでたく覚醒となる。
演じるのは、エヴァ・グリーン。ちょっとアン・ハサウェイにも似てるけどもっと憂い顔
で品が良い。
リンドと結ばれて英国諜報部を辞めて結婚を考えるところも原作にある。
ただ原作のリンドはもっと身持ちが硬くて、ロシアにある恋人に操をささげつつこっち
が服毒死するのだ。
ボンドへは置き手紙で真相を告げて死んでいく。
そこいくとエヴァ・グリーンの死はかなり派手だ。有名なヴェニスのビル沈没シーン。
これはムーグ社がロンドン近郊のパインウッドスタジオに巨大水槽を設けて撮影した
ものだ。
最後まで裏切り女リンドを助けようとするボンドの前で、リンドは水中で美しい死を遂
げる。『狩人の夜』(1955)のような溺死美女だが、死ぬまでのプロセスまで見せる。
原作と違うといえばここには、007シリーズでその後宿命の敵ともいうべき犯罪組織
スメルシュが不在だ。ダニエル・クレイグの新シリーズが決心したことは、この古くか
らの敵と決別することだといっていい。
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「007/カジノ・ロワイヤル」原作篇
p109 創元社推理文庫 井上一夫訳
シュマンドフェールでもバカラでも、三度目の勝負というのが鉄壁の障害になるのだった。第一と第二の試練で勝つことはできても、三度目の勝負は大抵負けになる。
「カジノ・ロワイヤル」は二度映画化されている。
007は二度死に、バカラは3度めに負ける。ゴールドシップはジャパン・カップで沈んだ。
(というのは間違いで解説によれば、3度映画化されている)
「ゴードンのジンを三、ウォッカを一、キナ・リレのベルモットを二分の一の割合で。氷みたいに冷たくなるまでよくシェークして、それからレモンの皮をうすく大きく切ったやつをいれる。わかったね?」(引用p.68)
フランス共産党系労組の大物ル・シッフルとボンドがカジノ・ロワイヤルで対決。お互いの腹の子がなくなるまでバカラを繰り返す。
結果はかろうじてボンドの勝ち。
その間に女スパイと仲良くなる。ヴェスパー、それはボンド考案のオリジナルカクテルに命名の名誉を得る。
しかし、美貌の英国秘密情報員ヴェスパー・リンドは謎の女だ。
ボンドが受けるきんたまの拷問の後は、この女とボンドとの死闘だ。
きんたまの機能が失われているかどうかを試すことも兼ねて、リンドと関係を持とうとする。
ばかりか、結婚まで申し込もうとする。
しかしヴェスパーは簡単にボンドのものにはならない。愛しているというのに。
ヴェスパーには裏がある。
それはある意味、『プリンセス トヨトミ』の旭ゲーンズブールにも共通する。
敵側の女を愛するスパイ。
その無様さを乗り越えることで、真のジェイムズ・ボンドが誕生する。
それがシリーズ第1作の役割だ。
ル・シッフルを暗殺したスパイ暗殺団スメルシュはまだ健在である。
続編の敵を予告しての閉幕。
なんかこういうTVシリーズものあった気がする。洋物かなんか。
黒澤明式『どん底』(1957)
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外国文学の翻案による映画化を黒澤は何作か手がけている。
その全てが見事に日本の土壌に移し替えられ、原作が外国のものと想像もつかないものさえある。
『どん底』はそのひとつだ。
もともと黒澤はロシア文学と縁が深い。ドストエフスキー『白痴』の大胆な映画化も(大胆な失敗作とも呼ばれているが。)その実りのひとつ。
翻案作品でいちばんまずかったのは『乱』だった。晩年の大胆(これもまた大胆)な実験作だ。色彩への挑戦については『影武者』が十分に果たしている。ハムレットの翻案としては『蜘蛛巣城』という完璧とも言える傑作があった。その上での挑戦という、はじめから失敗が見えていながら挑戦する心意気には思い上がりがあった。やむにやまれぬ芸術家としての魂がそこにあったという評価はできると思う。
だが、『乱』はやはり失敗作としなければならない。
では、『どん底』はどうなのか。
ゴーリキーの『どん底』の映画化ならば黒澤を含め4作品ある。
中でもジャン・ルノワールがジャン・ギャバンとルイ・ジェーヴェを主演にした36年作品は傑作のほまれ高い。ルノワールなので面白くないわけはないのだ。
この二人が扮するのは、泥棒と落ちぶれた貴族。黒澤の方だと三船と千秋が扮している。
ルノワールはゴーリキーの原作を換骨奪胎し、このふたり中心のドラマに組み直してしまった。
ルノワール作品は95分、対して黒澤版『どん底』は137分と長尺。
ほぼゴーリキーの原作の内容をそっくり映像に移し替えたといっていい。それだけで奇跡的といってもいいが、日本人として造作された(作りなおされた)人物たちがいかにも日本の時代劇の中のキャラクターとして生きているのに驚く。
中村鴈治郎扮するケチな大家、自分勝手に欲望のまま愛人(三船の泥棒)をつくり裏切られるときたない報復に出てくるその妻お杉(山田五十鈴)。貧しさと欲望に振り回されいじめ抜かれるけなげなヒロイン的存在のかよ(香川京子)は、お杉の妹であり、泥棒が思いを寄せている。穴蔵のようなひとつ部屋に複数の男女が寄宿する場所でそこに住む者達は生活の苦しさの鬱憤をいかに晴らすかに汲々として生きているのだ。
東野英治郎の留吉(鋳掛屋)は、女房が肺の病で寝込んでいる。とうとう死んでしまった時には安堵するととともに心の支え棒を亡くしたような寂寥感を覚えてなにも手につかなくなる。
貧しいながら僅かな金が入ると酒盛りと博打に明け暮れ、いかさまにも余念が無い。
そして酒を飲めばいつしかアカペラのジャムセッションがはじまるのだ。
声だけで歌い踊る貧乏人たちのバイタリティが画面いっぱいに表現されて、黒澤のダイナミズムの面目躍如なのである。
『七人の侍』で降りしきる豪雨の中で野盗と戦う侍たちのアクションの迫力がここではあたかも歌と踊りで再現される。
このジャムセッションは2回行われるが、藤木悠の卯之吉が鼓を鳴らし入れて穴蔵の住人たち揃い踏みの一大イベントに成長する。
ラストでそれが中断される。住人のひとりの自殺が宴会を止めてしまう。三井弘次(喜三郎)の「馬鹿野郎」のセリフでの締めくくりも原作に忠実だ。
最も注目すべきはお遍路嘉平の左卜全だろう。
宿を求めてやってくる嘉平は巧みな語りと住人たちの聞き役になって女達を中心に人気者になってしまう。穴蔵の平和を回復させる使者のような存在となるのだが、やがていかがわしい過去が想像され(想像だけだが)てまた放浪の旅に出て行ってしまうのだ。
嘉平が語るヒューマニズムこそ黒澤作品の全てに通底として流れる思想と位置づけられるかもしれない。
その嘉平がやがて居づらくなって消えていく。
そこはいかに解釈するべきだろうか?
『黒い雨』井伏鱒二作
まだ読んでいる途中だが、おそろしく密度が濃い作品だ。ほんの数ページの中に原爆が落ちた広島の犠牲者たちの模様がつぎつぎに描かれていく。
これを映画化したのは今村昌平だったが、いまさらながら今村のバイタリティの強さに驚くばかりだ。
今村昌平の最高傑作は初期の『果しなき欲望』だと個人的に決めてかかっているが、日本の土着な人たちのエロスと生きる執念を描いた鬼才が原爆文学(というより戦後日本文学の最高峰のひとつだろう)の傑作をなにもって映像化しようとしたのか、気になるところだ。
公開時に映画館で見なかったことが悔やまれもする。
「矢須子が『おじさん』と叫んで、何かにつまづいて前のめりになった。煙が散るのを待って見ると、その障害物は死んだ赤ん坊を抱きしめた死体であった。僕は先頭に立って、黒いものには細心の注意を払いながら進んだ。それでも何回か死人につまずいたり、熱いアスファルトに手をついたりした。一度、半焼死体に僕の靴が引っかかって、足の骨や腰骨などが三尺四方にも4尺四方にも散ったとき、僕は不覚にも「きゃあッ」と悲鳴をあげた。立ちすくんでしまった。」p100新潮文庫
東日本大震災を題材とした文学もこういう人間の真実が描かれるべきだと私は感じるのだ。