映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『パンク侍、斬られて候』(2018)

『爆裂都市 BURST CITY』で町田康osiキチガイ弟(兄は戸井十月)として役者デビューさせたのが石井聰亙だった。その後の芥川賞受賞と華々しく作家としての地位を着実に固めていった先に書かれた『パンク侍』、満を持しての映画化はやっぱり因縁の石井聰亙でなければならなかった。


クドカン脚本は思っていた以上に(異常に)原作に近く、素のあまりのデタラメさ加減に閉口したのか、やけくそ気味のあせりすら感じさせる力作だった。
机龍之介を思わせる、いきなりの巡礼乞食暗殺に幕を開けるドラマなのだが、ここで真っ先殺される乞食親父を演じているのが町田康にして町田町蔵なのだ。巡礼の盲目の娘が誰かは、いわずに置くのが仁義だろう。

ただ、宮藤脚本はここで原作にちょっと手を加えている。
盲目の娘は、原作だと本当に盲目で、腹ふり党の元幹部の近くにいることで癒やされ見えるようになるのである。

しかるに、工藤は腹ふり党が真のインチキ宗教であることを強調するために、盲目少女は目の悪いふりして乞食していたという設定に変えた。

というところまで読んでカンのいい人は、これがネタバラシを兼ねていることに気づくであろう。

 

だから見てない人は読まないほうがよかったのだ。

というアドバイスもいまさらなのだが。

 

宮藤の工夫はさらに、気絶侍暮場を重用する。掛を見つけて黒和藩に連れてきた張本人の近藤公園は存在感を示す間もなく、さるまわ奉行に回される。


暮場を文字通り怪演するのが染谷。掛と幼馴染が暴露される真鍋五千郎は案外にないがしろにされてしまう。本当なら腹ふり党に怪我を負わされた真鍋は歩けないままに腹ふり軍に突入して切れるだけ切りまくるも敵の勢いに力尽きて惨殺されて滅びていく。まるで関ヶ原の大谷刑部みたいな最期を遂げる。これが描かれなかったのは残念だった。


幼馴染といえば、茶山半郎もそうだった。茶山は小さい頃から嫌われ者のシャブ中という設定である。要するに、町田の原作はこの幼馴染三人が偶然再会して起こる崩壊劇なのだが、そのへんも宮藤脚本では省いてある。ただ偶然にそうだったという添え物的な設定といえばいえるので、無視されても仕方ないのかもしれない。


同じ石井だけに、石井輝男へのオマージュでまとめあげていることもいい添えておく。本当なら腹ふり党ダンスは暗黒舞踏派のダンサーが担うべきだった。土方巽が生きていれば間違いなく茶山だった。田中泯麿赤児でさえも近ごろはミーハーに走ってしまい、けしからんという他はない。浅野になんぞやらせないでせめて大森南朋あたりが奮起するべきだった。


江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(1969)のように花火とともに人も猿も吹き飛ぶラストが美しい。

『白ゆき姫殺人事件』(2014)

井上真央は全速力で何処へ。タイトルがゴダールみたいだ。それだけでこの映画を好きになってもいいくらいだ。


三木典子が菜々緒であるところは、納得できる。しかもハマり過ぎて意外性無く、むしろミスキャストだった。狩野里沙子の蓮佛が相変わらずの気持ち悪さで好演している。小野恵令奈も飾らない演技で堂々たるものだ。

 

 

Sの文字のマグカップを狩野が割ってしまうのだ。床に落としてバラバラになるが、原作はひびが入っただけ。それゴミ箱から拾って城野は愛車の中でキャンディ入れとして使っている。それだけの愛着のものだということを誰かが語っていた。
小沢が城野を目撃する場所が違う。駅前のタクシー乗り場ではない。飲み会の帰りに寄ったカフェの席からだ。赤星に取材受けるのもそのカフェだ。
その赤星は週刊誌のフリーライターじゃなくて、テレビのディレクターみたいなことやっている男だ。一層胡散臭く脚色されているのだ。
Sの文字、芹沢ブラザースグッズであることを指す。
原作だと狩野は友達のみっちゃんと弁償としてMの文字のマグカップを買ってくるのだ。美姫のM、三木のM、みっちゃん=満島のMとMにまつわる不吉なものをあたかも蔓延させるのだ。Mは間違いのMでもある。Sを城野のSと間違えている。

『関ヶ原』(2017)

さすが原田監督も映画少年のはしくれ、秀吉の死のシーンが『市民ケーン』だった。
布団の中で息を引き取った滝藤秀吉の手から手毬が転がり落ち、それを岡田三成が拾い上げる。
そこからすべてのドラマははじまる。「ローズバッド」
市民ケーン』と比べるといささかイントロが長すぎる恨みがある。

豊臣秀次の失脚について、NHK真田丸」でしつこく描かれていたが、司馬の原作には出て来ない。
原田は関係者一同の引責処刑の様子を描き、その前の場面では最上家の駒姫について三成が命乞いをするところを入れた。三条河原での処刑の際に最上家の忍びである初芽が処刑人に飛びかかって抵抗をする。またそこに居合わせた浪人の島左近に目をとめた三成が、島を追いかけて愛人(?)の壇蜜の屋敷までついていく。
壇蜜が演じたのが出家して妙善、俗名を椿井妙(つばいたえ)という。原作だと中巻の頭の方に出てくる。尼さんになってからも愛人とはおかしいだろうが、いかにも壇蜜らしい艶めかしい配役だ。原作だと三成に追われるのではなくて、大阪の商家に出没して情報をかぎまわっていた左近が家康方の刺客に襲われて逃げ込むのが、昔なじみの妙善の庵なのだ。どこまで本当のことかは分からない。
映画ではそこを逆手に取って三成左近の出会いの場にしてしまった。それはそれで悪くない。
で、逆手といえば初芽もそうだ。とかく男臭くなりがちな合戦物のドラマの中で砂漠のオアシスのような潤いの場面を設けるために司馬が創作した(と思われる)初芽もそもそもが実在じゃないことをよいことに映画はアクションもこなす伊賀者という設定にまで拡張した。原作では初芽の局という藤堂家ゆかりの女性だ。淀殿に仕えていたのを自らの希望で三成の妾となった。もともと藤堂家から三成を監視すようにいわれていた、いわば忍びだったのだが、三成に惹かれるにつれてその役目を捨ててしまう。そこで司馬が描いたのは戦国時代の「恋」だった。
三成という人物を小説ではなかなかの食わせ物と描いており、人に好かれるような気性ではない。むしろ嫌われ者だ。
家康もその点同じであって、天下を取ろうとする悪党という面が強調されている。
関ケ原とはこの悪党二人のぶつかり合いだった。

原田の映画でも初芽三成は恋人として描かれる。映画は、三成=大一大万大吉=正義であって、その正義が敗れるという悲痛を強調した。故人となった主人の意志を貫こうとして滅びていく三成に哀愁がある。
司馬の原作では、関ヶ原の結果を受けて、300年後に倒幕に動く諸藩の動機にまで言及している。
原田は三成の戦いを赤穂浪士の前哨戦のような敗者への同情という日本人的な感情に集約しようとしている。

さらに、さすがに三成が関ヶ原の戦いの時に下痢腹で奔走していたことはとらなかった。真田丸山本耕史はよく厠に通っていたけどね。

『襲い狂う呪い』<未>(1965)

DIE, MONSTER, DIE
MONSTER OF TERROR
悪霊の棲む館(TV)
上映時間 80分
製作国 イギリス
公開情報 劇場未公開・ビデオ発売
監督: ダニエル・ホラー

原作: H・P・ラヴクラフト

出演: ニック・アダムス 、ボリス・カーロフ

「異次元からの色彩」または「宇宙からの色彩」が原作。「色彩」というのは、光る石のことで、これが隕石であり放射性物質をまき散らし、感染したものは死滅してしまう。人間も動物もかたちが崩れてモンスターと化してしまう。アルドリッチの『キッスで殺せ!』にも似た放射能への恐怖をまともに取り上げた作品だ。かたやSFホラーとして、かたやサスペンスとして出来上がった両作品だが、放射能という未知のものに対する迷信的な恐怖をかたちにするとこうなったという時代性の産物といってもよい。

    


「宇宙からの色彩」は全集だと4巻


『太陽の爪あと』は「閉ざされた部屋」が原作で全集だと1巻

フロム・ビヨンド』は「彼方より」で全集だと4巻

『ネクロノミカン』

『ZONBIO/死霊のしたたり』が「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」の映画化で全集だと5巻

『ヘルハザード/禁断の黙示録』『怪談・呪いの霊魂』の原作が「チャールズ・ウォードの奇妙な事件」全集2巻

『ドゴン』、「インスマウスの影」全集1巻、「ダゴン」全集3巻より

ラブクラフトのダンウィッチの怪』全集5巻

『山椒大夫』(1954)

はじめて溝口の『山椒大夫』を見た。
これは森鴎外の描いた説話文学の原作によく似ている。
が、内実は全く違う変貌を見せた。
原作をゆがめているわけではない。
原作の持っている親子愛、別れと再会のドラマの骨格は完全に残している。
だが、原作が潜在的に持っていた民衆の蜂起という社会的なテーマを浮き立たせた。
つまり、溝口作品はクーデター映画なのだった。
その準備を安寿と厨子王の父親の廃嫡を描いたところからおこなった。
鴎外はふたりの父親が筑紫にいるので会いに行くとは書いたが、流謫されたとは明言していない。
いわば単身赴任のように筑紫へ移動され、連絡もなくなったとしている。
そこで4人が旅に出るのだ。
親切を装って4人を人買いにひきわたすのが、映画は巫女だ。鴎外の原作は親切そうな農夫がじぶんの家に泊めるのだ。
女が裏切る方が残酷に見えるから映画は変えたのだろう。効果は抜群だ。
ばあやの姥竹は浪花千恵子だった。原作の姥竹は船から自分で海に身を投げる。その後を追おうとして母は止められ、佐渡に連れられてしまう。
その前に原作は4人とも船に乗せられるのだ。子供たちと大人ふたりと分乗させられる。ところが船の方向が逆だったので大慌てとなり、だまされたことを知るのだ。
映画の安寿と厨子王は船にはのらない。浜辺にいたまま人買いにどつかれて連れ去られるのだ。
そして、原作と映画の大きな違いなのだが、安寿の香川京子の方が妹である。
山椒大夫の屋敷から逃げるときは衝動的だ。森鴎外の姉の安寿は準備を整え時期を待ち、計画的にそれを実行するのだが、映画はたまたま屋敷の囲いの外に出る機会がある、そこで厨子王が思いつくのだ。国分寺まで逃げてかくまってもらえばいいと香川はいうが、どこでその知識を得たかは描かれない。しかし原作の安寿はその情報を着々とあつめ、逃げるタイミングを虎視眈々と計っていた。いわば確信犯であり、入水することもはじめからの予定だった。
しかし映画の香川京子の入水シーンはまことに美しい。『少女ムシェット』 (1967)のラストを髣髴とさせる名シーンだった。むしろブレッソンが溝口を意識したのではなかったか。
宮川一夫の名人芸を堪能できるシーンはあちこちにある。

『メッセージ』(2016)

 

 

原作『あなたの人生の物語』のあなたは主人公ルイーズ・バンクスの娘のことだ。これは娘が誕生するまでの物語だ。ルイーズは、娘に「あなたの人生」を語っていく。時間をさかのぼる形で。それと並行して宇宙人の言語解読のドラマがつづられる。ウェーバー大佐からの依頼で未知の生物の言語を調べるのは、ルイーズと原子物理学者のゲーリーだ。ゲーリーがある時、ルイーズを自分の部屋での食事を誘う。自分のたったひとつの得意料理を披露するという口実だ。映画のジェレミーにあたるこの男が娘の父親である。ふたりはしかし、いずれ別居し、ルイーズと娘は母子家庭となる。

日本語タイトルは『メッセージ』だが、原題はARRIVAL。つまり「到着」または「訪れ」か。
これは未知の宇宙人の地球訪問と娘の誕生のダブルミーニングだ。

『あなたの人生の物語』には、いかにもSF的なキーワードがふたつある。宇宙人類の名称であるヘプタポッドとヘプタポッドとの通信を可能とするルッキンググラスだ。これは日本語だと「姿見」になるが、エイリアンの装置だ。エイリアンとはこの姿見を通してコミュニケーションが行われる。実物の宇宙人との接触は、どうも原作においてはない。


だから映画にはルッキンググラスは登場しない。
映画で大型の未知の物体が地球上の12箇所に飛来して、空中に静止しており、その中に7本足のイカ型宇宙人がいる。ところが原作で地球に届けられたのは「姿見」だ。宇宙人事態は飛来していない。この点、映画はウェルズ『宇宙戦争』(あるいはジョージ・パルとかスピルバーグが映像化した『宇宙戦争』)の火星人を踏まえている。

そしてイカ型だけに墨を吹き、それをリング状の形にしてそれが言語なのだ。

原作ではヘプタポッドの言語はある程度、解読がすすんでいるのだと思われる。
p235「ヘプタポッドの惑星には二個の月があり、片方がもう一方より著しく大きいということ。惑星の大気を構成する三大要素は、窒素とアルゴンと酸素である。惑星表面の二十八分の十五は水でおおわれている。」
くらいのことがその言葉から分かっている。

原作のヘプタポッドはラズベリーとフラッパーというあだ名をつけられているが、映画はよりコンビ感を出すためにアボットコステロと呼ばれる。米軍の若手が暴走して宇宙人たちを攻撃したためにコステロは「死の領域」にあると、ルイーズはアボットとの会話で理解する。それだけヘプタボット言語をかなりのところ習得できているのだ。そればかりでなくアボットはルイーズを仲間だとでも思い始めているのだろう。宇宙船に危機がせまったときには、ルイーズの体をはじきとばして助けてくれるのだ。

ルイーズが自分の娘に対して成人するまでの生い立ちを語ってきかせるのだが、小説は正確に時間を順番通りに遡る。娘の年齢が次第に若くなって誕生するところがラストである。

これに対して映画は、最初に娘の誕生を見せる。

我々観客は思わず『二〇〇一年宇宙の旅』のラストを連想するであろう。もしかしたらキューブリックの傑作SF映画の続編がこれなのでは、という錯覚を誘引させる。


娘とルイーズのエピソードは小説のように時間を正確に遡らず任意に画面を見せていく。宇宙人とルイーズの関係に進展が起きたときのタイミングで、関連するシーンが回想ないしは予言される。
このドラマは時間の扱い方が普通ではない。このドラマ(映画も小説も)の大きなテーマが時間だからだ。つまり非常にSFっぽいのだ。これほどにSFとして語るにふさわしいドラマはない。

 

 

山田風太郎柳生十兵衛死す』より
「いえ、この世は過去と未来はべつべつでござりましょうが、能では、それは同時に存在する世界なのでござります」
「能は過去を呼び出すと同時に、未来へ翔ぶ芸なのでござります」

 

『美しい星』(2016)

原作をいままで読まないでいたが、映画化したのを機会に一読した。
読み終えた日に早速、映画館に足を運んで観た。

仙台の映画館だったけど、仙台が舞台のシーンは無し。
大年寺山から泉ヶ岳方向を眺めてUFO探す場面見たかったけど残念。
入会権(今時知らないよなあ)の研究者・羽黒助教授以下仙台のでこぼこ3人組も当然いない。
だから仙台では2館しか上映してないのか。扱いが冷たい。

でもこの映画、中村監督のキューブリック愛が堪能できる1作じゃないのかな。
平沢進「金星」も悪くないけど、サラバンドがよかったね。


映画は、三島由紀夫の原作のプロットを21世紀、平成の日本に移植した。いわばタイムスリップ映画だ。時代的な問題をたっぷりとふくませた1960年代の物語を平成の世に移し替えるのに相応の換骨奪胎を行った。それはうまくいっているところもあるし、原作をゆがめ別物にしてしまったところもある。ただ大筋の流れはかなり原作に忠実だったと思うし、21世紀にあって、時代の論点は相当に変わったわけだからそれは致し方ないところだ。


大きく違うのは水爆の恐怖で、原作が書かれたのは、ボタン一つでもしかしたら人類滅亡の危機に陥るというまさに一触即発の時代だった。キューブリックが『博士の異常な愛情』で、シドニー・ルメットが『未知への飛行 - フェイル・セイフ』で描いた狂騒の時代だ。


これを映画は地球温暖化の危機にすり替える。

原作の大杉重一郎は、火星人であることを隠して「宇宙友朋会」なる愛好会を組織し、人類に平和をと、核兵器の廃絶を訴える講演会を繰り返し絶大な支持を得ている。
これを気に食わない連中が仙台にいる3人組だ。大年寺山から泉ヶ岳方面を眺めてUFOを目撃し、宇宙人であることに覚醒した男たち。彼らは太陽系を超えて白鳥座六十一番の未知の惑星からやってきたと称する。彼ら、特にリーダーである羽黒助教授の主張は、人間絶滅だ。スイッチひとつで水爆を発射し、地球を破滅させて故郷の白鳥座に帰ろうという野心を持っている。
大杉と羽黒たちの主張は真っ向から対立し、大杉家を舞台に延々とそれぞれの意見を述べ合う対決シーンが後半部で繰り広げられるのだ。これをまともに映画化したらどうなるだろうと、読んでいるとそれだけではらはらしてしまうような展開だ。この場面をまともに映像化したらタル・ベーラニーチェの馬』を超えるような緊迫した長台詞の掛け合いになるのではと期待はふくらんだが、中村はさすがというべきか巧妙にこれを避ける。


地球温暖化を巡って重一郎と対立するのは、謎の男・黒木なのだが、これは小説だと保守系の代議士で、大学生の一雄が気に入られアシスタントとして雇われて活動するようになる。都内のアパートに引っ越し実家には帰らなくなる。
大杉家は埼玉県の飯能市にあって小説では主要な舞台はローカルな場所にある。これを映画はほとんど東京都内に変えた。暁子が偽金星人と交流する金沢をのぞくと舞台はほとんど移し替えられた。


暁子のペンフレンド竹宮は謡をやっていて道成寺の披きをするような人物だし、仙台から上京した羽黒たちをもてなすために一雄が歌舞伎座団十郎襲名披露興行(大喜利三島由紀夫作『鰯売恋曳網』!)に連れて行くなど、三島の古典芸能趣味が色濃いのだが、中村の脚本ではすっかり排除された。いまどきペンフレンドも流行らないので、金星人との出会いは路上ライブで「金星」という曲を歌う竹宮に暁子が惹かれて金沢のライブハウスまで行ってしまうのだ。そこで内灘町の海岸まで導かれてUFO目撃し、同時に妊娠にいたる。

友朋はUFOをなぞっている。「宇宙友朋会」という活動もいまとなっては地道に過ぎるきらいがあるため、映画ではもっとスピーディーに主張を拡散できるマスメディアを活用する。大杉重一郎は気象予報士で報道番組の人気者だ。だから異常気象と地球温暖化への警鐘を行う役回りにもすんなりと移行できた。

原作の一雄は女たらしだ。だから報復として、ことさらに純潔を保とうとする暁子が同じ女たらしの偽金星人に凌辱されるのだ。
映画では重一郎も若い愛人との密会に忙しい。
映画の一雄はフリーターでメッセンジャーだ。
そんな一家の人間関係を映画の冒頭は鮮やかに描き出してた。まるでハワード・ホークスの西部劇みたいだ。
それは一家の(誰かの)誕生会がレストランで行われている。メッセンジャーの一雄は遅れてきて着替えもしていない。バイトのコスチュームのままだ。重一郎には仕事を装った秘密めいた電話がかかってくる。テーブルから離れて電話していると、サインをねだられるのだ。選んだレストランは愛人の中井玲奈と行った場所(のチェーン店)ということが後で分かる。


地球温暖化をめぐる宇宙人同士の対決がテレビ局の屋上で行われるクライマックス。ここで重一郎は敗れ、血反吐を吐いて癌を発症する。
その後の病院でのシーン、そして一家での病院脱走とUFOとの遭遇に至るラストはほぼ原作通りだ。
中村の演出は、これ以降、キューブリックを意識した演出を施している。
UFOにとりつかれたリリー・フランキーの狂気の表情はどこか『シャイニング』のジャック・ニコルソンに似ている。
水爆ではないものの地球の最後をめぐるディスカッションドラマとしては『博士の異常な愛情』にも通じる。
『メッセージ』のような『2001年宇宙の旅』へのリスペクトも当然含まれる。異星人との接触のドラマとして。
そして、極め付けがサラバンドだ。リリー・フランキー佐々木蔵之介とが対峙する最後のクライマックスで使わる音楽がまさかの『バリー・リンドン』なのだ。


映画を見ながら監督たちのキューブリックへの異常な愛情をみつけるのもまた楽しみのひとつ。これはヒッチコックのワンカット出演をみつけるのにも似ている。森田の『家族ゲーム』、石井の『爆裂都市』、クリストファー・ノーランの『インターステラー』、ドゥニ・ヴィルヌーヴの『メッセージ』、ジェームズ・キャメロン『アビス』『タイタニック』等々である。