映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『フィッシュストーリー』(2009)


伊坂作品はどんどん映画化されるが、いまだにこれといったものがない。韓国版の『ゴールデンスランバー』(2018)に期待するか。

 

原作をどう生かすか、どう理解しているかのバロメーターが映画オリジナルのストーリーやら演出となって表れる。(のだろうか?)

 

2012年、巨大彗星の衝突が間近に迫る地球、日本のとある都市の片隅。石丸謙二郎電動車いすころがして、ゴミだらけのアスファルトの道を散策している。とあるレコードショップが営業中であることに目を留めて、そこに入っていく。とそこにいるのが、店長の大森南朋。(あとも一人、客の若い男)かけるレコードが逆鱗の「フィッシュストーリー」と、こんなシーンは伊坂の小説にはない。

 

伊坂の小説は、山形と仙台がメインの舞台。映画は特にことわりはないのだが、山形から仙台に抜ける道路を濱田岳その他は通って合コン会場に向かったと思われる。
合コン会場は、たぶんだが、仙台市泉区にあるイタリアン・レストランだ。
合コン相手のひとり予言少女を演じた高橋真唯は今は岩井堂聖子と称しているようだ。この予言少女、原作にはいない人物。

 

彗星衝突に逃げない3人組の芝居、濱田岳一行の合コン男3人組の芝居、ともにぎこちなくて見ていられないのだが、これらのシーンは原作にはない。
あるのは、合コン帰りに「フィッシュストーリー」を聞きながら強姦の現場に出くわして女性を助けるところ。

 

合コンから強姦へとはつまらないつながりをつけたもんだが、強姦男が滝藤賢一だ。
滝藤賢一は『ゴールデンスランバー』(2009)にもちょい役で出ていたな。

 

天才計算少女、多部未華子の登場でようやく役者らしい役者が出てきたとほっとした。
本当はシージャックじゃなくてハイジャックでいきたいところだった。ジャック犯をやっつける正義の味方については原作にもあるけど森山未來みたいなコックじゃなくて、麻子(多部)と飛行機に隣り合わせたガタイの大きな男だ。森山みたいにきゃしゃじゃなく、マッチョな男だ。

 

麻子はそこで小説を開いている。そこにフィッシュストーリーの歌詞としてパクられる下りが書いてある。麻子が読んでいるのをみて、自分も好きな小説だと声をかけるのだ。

 

つまり、小説の中の小説は、映画のような幻の翻訳本ではないのだ。パクリで歌詞作っちゃさすがにまずいというのでここはアレンジしたのだろう。

 

逆鱗というバンド名も映画オリジナルだったと思うが、レコーディングの下りはほぼ原作通り。

 

ただし、江口のりこみたいな居眠りはいねー。江口はセリフなんかなくてなんにも言わねー。
江口のりこの破壊力はこんなちょい役でも十分に発揮されてて、おかげで彗星による地球消滅も必要なくなったとばかりに、多部の計算が地球を救うのだ。
ついでに多部もよく眠る。

『ミッドナイト・ミート・トレイン』<未>(2008)

原作: クライヴ・バーカー

監督: 北村龍平

 

原作の翻訳が集英社文庫で出たのが1987/1だからせめて20世紀のうちに映画化していたら日本での劇場公開もあたかもしれない。

北村にしたら抑え気味の演出ながらみせるべきところは見せる正統スプラッタホラーの凡作に仕上がった。。

原作が短編なので長編映画にするために要素をかなり付加して、事件の目撃者を新鋭カメラマンに設定している。

これはいわゆる継承ものホラーに属する。『サスペリア』『へレディタリー』の系列に属する映画だ。

ニューヨークの裏側をショットで切り取ることをテーマとするカメラマンのレオンは、地下鉄の入り口のところで人気モデル(ブルック・シールズ)が暴漢たちに襲われているところを写真に撮ることに成功する。

ついでにレオン(ブラッドリー・クーパー)は暴漢たちに監視カメラの存在を示唆することで暴行を止め、モデルの女性を救い出すことができた。

ところが翌日の新聞に、このモデルが行方不明になったと掲載されるのだ。
不審に感じたレオンは翌深夜、地下鉄に乗り、そこで凄惨な殺人現場に遭遇するのだ。
殺人者は肉屋が使うハンマーで乗客を次々殴り倒して衣服を剥ぎ取って、牛の枝肉みたいにつり革のポールに鉤爪に逆さ吊りしていくのだ。その作業は手際よく職人技である。

この死体は、ニューヨークの街の地下に棲む始祖たちの餌となることが原作では説明されるけれど、映画では詳しい説明は省かれる。ただ、不気味な死体喰いモンスターがちらりと出てくるだけだ。

この始祖に食料を届ける屠殺人は一見、ビジネスマン風だ。ブリーフケースを持ち、そこから肉ハンマーを取り出す。

後頭部をぶんなぐると勢いで目玉が飛び出すほどだ。
死体処理のためにも目玉をくり抜く描写があり、まさに目玉づくし。
屠殺人はホテルに住み、時折、鏡を観ながら胸にできた腫瘍をナイフで毟り取って瓶にいれて保管している。こんな描写は原作にはない。それから食肉工場で働く男の姿も原作にはない。

この男は100年以上も前から始祖のための殺戮を繰り返していた。だいぶ消耗していて体がもたなくなりつつある様子を見せる。

原作にはマホガニーとカウフマンというふたりの男が登場する。
アトランタからニューヨークに出てきて20年も経つ小男のカウフマンの職業は定かではなく恋人もいない。彼が地下鉄でマホガニーの殺戮現場に遭遇するのだ。

「よく見ると、そんなに恐ろしい男でもないようだった。禿げかけた五十がらみの男。どこにでもいるような肥満体の中年男だ。物憂げな表情、落ちくぼんだ目。口は小さく、繊細そうな唇をしている。」(宮脇孝雄訳)

映画の殺人鬼は、唇以外は原作のイメージとは違っている。
原作の殺戮シーンは事細かに念入りに(つまりグロテスクを追求して)描かれる。食用動物を屠殺して加工する手順を人体に当てはめて作業が行われる。剃毛とか血抜きとかの手順を怠らず食用(?)として整えるという悪趣味を貫くのだが、映画の描写は必ずしもそうではない。

屠殺男が奪ったレオンのカメラを取り返すべくホテルの部屋に侵入するのが恋人と友人なのだが、見つかって恋人は命からがら逃れるも友人は捕らえられてしまう。そして地下鉄のポールに他の死体と一緒に逆さ吊りされる。その時、頭髪はそのままだし第一生きたままだ。レオンが殺人鬼と格闘する時に大鉈で切り裂かれ血まみれで息絶えるが、別に人質という風でもなく生きたまま吊り下げるとはルール違反というものだ。

ここで思い出すのが『ホステル2』のバートリ・エルジェべト風の拷問で殺される女子大生だ。手足縛られ、やはり逆さ吊りに天井からぶら下げられる。その下の浴槽に全裸になって横たわるのが、この娘をオークションで競り落とした女主人。鎌を使って娘の体を切り裂き、滴り落ちる血を体に受けて恍惚となる。

 

真田風雲録(1963)

監督:加藤泰

原作:福田善之

 

脚本に原作者福田善之も加わっているけど、かならずしも原作通りの筋書きで映画化はされていない。
主演が中村錦之助だけに、佐助=主人公で活躍する場を多く設けている。
原作戯曲がそもそもそうだが、『信長協奏曲』や『真田丸』みたいな現代語でしゃべる時代劇の先駆的映像作品といっていいのでは。ミュージカルであることもポイントだ。ミッキー・カーチスにぎたあるを持たせて弾き語りさせたり、戦勝祝に踊り騒ぐなど音楽的要素は原作からふんだんに取り入れられた。
千姫もドレス姿で秀頼と踊る。
佐助が超能力を持っていて戦闘その他で大活躍するところ、映画ならではの特殊撮影やクローズアップを駆使している。
加藤泰の演出のスタイルがこうまで嵌まるとは意外ともいえる収穫だった。
原作戯曲の持つ主題(学生運動とか、時代劇とミュージカルのミスマッチとか)と加藤泰のスタイルが一見、相反するように感じられていたとしたら、それは偏見だったかも知れない。
原作通り描かれるシーンはある。
例えば、
第二 雲の巻 その二 真田隊抜けがけ波瀾を生む事
真田十勇士の戦いで徳川軍を分裂に導く成果を上げるも、有楽斎は評価せず恩賞も与えない。だが、この前映画で真田隊の進軍を阻むのは服部半蔵と忍者部隊だが、戯曲では「大久保彦左衛門をはじめとする徳川親衛隊」だ。
佐助がラストで服部半蔵と一騎打ちするのだが、戯曲に半蔵は登場しないので映画独自の登場人物となる。
戯曲では真田丸で宴会のシーンがあるが、映画にはこの出城は省略されている。
第三 炎の巻の「その三 大野修理なお策をたてる事」~「その六 その翌日の事」までは戯曲の流れを順当に踏んでいるものの、セリフは多く刈り込まれて、さらに佐助と半蔵との対決を織り込んでいる。
しかし、ラストで荒野を歩く佐助の俯瞰シーンでは「佐助のテーマ」を独唱するのだ。
千姫を救って江戸に連れて行く(渡辺美佐子のお霧も)坂崎出羽守が田中邦衛

『パンク侍、斬られて候』(2018)

『爆裂都市 BURST CITY』で町田康osiキチガイ弟(兄は戸井十月)として役者デビューさせたのが石井聰亙だった。その後の芥川賞受賞と華々しく作家としての地位を着実に固めていった先に書かれた『パンク侍』、満を持しての映画化はやっぱり因縁の石井聰亙でなければならなかった。


クドカン脚本は思っていた以上に(異常に)原作に近く、素のあまりのデタラメさ加減に閉口したのか、やけくそ気味のあせりすら感じさせる力作だった。
机龍之介を思わせる、いきなりの巡礼乞食暗殺に幕を開けるドラマなのだが、ここで真っ先殺される乞食親父を演じているのが町田康にして町田町蔵なのだ。巡礼の盲目の娘が誰かは、いわずに置くのが仁義だろう。

ただ、宮藤脚本はここで原作にちょっと手を加えている。
盲目の娘は、原作だと本当に盲目で、腹ふり党の元幹部の近くにいることで癒やされ見えるようになるのである。

しかるに、工藤は腹ふり党が真のインチキ宗教であることを強調するために、盲目少女は目の悪いふりして乞食していたという設定に変えた。

というところまで読んでカンのいい人は、これがネタバラシを兼ねていることに気づくであろう。

 

だから見てない人は読まないほうがよかったのだ。

というアドバイスもいまさらなのだが。

 

宮藤の工夫はさらに、気絶侍暮場を重用する。掛を見つけて黒和藩に連れてきた張本人の近藤公園は存在感を示す間もなく、さるまわ奉行に回される。


暮場を文字通り怪演するのが染谷。掛と幼馴染が暴露される真鍋五千郎は案外にないがしろにされてしまう。本当なら腹ふり党に怪我を負わされた真鍋は歩けないままに腹ふり軍に突入して切れるだけ切りまくるも敵の勢いに力尽きて惨殺されて滅びていく。まるで関ヶ原の大谷刑部みたいな最期を遂げる。これが描かれなかったのは残念だった。


幼馴染といえば、茶山半郎もそうだった。茶山は小さい頃から嫌われ者のシャブ中という設定である。要するに、町田の原作はこの幼馴染三人が偶然再会して起こる崩壊劇なのだが、そのへんも宮藤脚本では省いてある。ただ偶然にそうだったという添え物的な設定といえばいえるので、無視されても仕方ないのかもしれない。


同じ石井だけに、石井輝男へのオマージュでまとめあげていることもいい添えておく。本当なら腹ふり党ダンスは暗黒舞踏派のダンサーが担うべきだった。土方巽が生きていれば間違いなく茶山だった。田中泯麿赤児でさえも近ごろはミーハーに走ってしまい、けしからんという他はない。浅野になんぞやらせないでせめて大森南朋あたりが奮起するべきだった。


江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(1969)のように花火とともに人も猿も吹き飛ぶラストが美しい。

『白ゆき姫殺人事件』(2014)

井上真央は全速力で何処へ。タイトルがゴダールみたいだ。それだけでこの映画を好きになってもいいくらいだ。


三木典子が菜々緒であるところは、納得できる。しかもハマり過ぎて意外性無く、むしろミスキャストだった。狩野里沙子の蓮佛が相変わらずの気持ち悪さで好演している。小野恵令奈も飾らない演技で堂々たるものだ。

 

 

Sの文字のマグカップを狩野が割ってしまうのだ。床に落としてバラバラになるが、原作はひびが入っただけ。それゴミ箱から拾って城野は愛車の中でキャンディ入れとして使っている。それだけの愛着のものだということを誰かが語っていた。
小沢が城野を目撃する場所が違う。駅前のタクシー乗り場ではない。飲み会の帰りに寄ったカフェの席からだ。赤星に取材受けるのもそのカフェだ。
その赤星は週刊誌のフリーライターじゃなくて、テレビのディレクターみたいなことやっている男だ。一層胡散臭く脚色されているのだ。
Sの文字、芹沢ブラザースグッズであることを指す。
原作だと狩野は友達のみっちゃんと弁償としてMの文字のマグカップを買ってくるのだ。美姫のM、三木のM、みっちゃん=満島のMとMにまつわる不吉なものをあたかも蔓延させるのだ。Mは間違いのMでもある。Sを城野のSと間違えている。

『関ヶ原』(2017)

さすが原田監督も映画少年のはしくれ、秀吉の死のシーンが『市民ケーン』だった。
布団の中で息を引き取った滝藤秀吉の手から手毬が転がり落ち、それを岡田三成が拾い上げる。
そこからすべてのドラマははじまる。「ローズバッド」
市民ケーン』と比べるといささかイントロが長すぎる恨みがある。

豊臣秀次の失脚について、NHK真田丸」でしつこく描かれていたが、司馬の原作には出て来ない。
原田は関係者一同の引責処刑の様子を描き、その前の場面では最上家の駒姫について三成が命乞いをするところを入れた。三条河原での処刑の際に最上家の忍びである初芽が処刑人に飛びかかって抵抗をする。またそこに居合わせた浪人の島左近に目をとめた三成が、島を追いかけて愛人(?)の壇蜜の屋敷までついていく。
壇蜜が演じたのが出家して妙善、俗名を椿井妙(つばいたえ)という。原作だと中巻の頭の方に出てくる。尼さんになってからも愛人とはおかしいだろうが、いかにも壇蜜らしい艶めかしい配役だ。原作だと三成に追われるのではなくて、大阪の商家に出没して情報をかぎまわっていた左近が家康方の刺客に襲われて逃げ込むのが、昔なじみの妙善の庵なのだ。どこまで本当のことかは分からない。
映画ではそこを逆手に取って三成左近の出会いの場にしてしまった。それはそれで悪くない。
で、逆手といえば初芽もそうだ。とかく男臭くなりがちな合戦物のドラマの中で砂漠のオアシスのような潤いの場面を設けるために司馬が創作した(と思われる)初芽もそもそもが実在じゃないことをよいことに映画はアクションもこなす伊賀者という設定にまで拡張した。原作では初芽の局という藤堂家ゆかりの女性だ。淀殿に仕えていたのを自らの希望で三成の妾となった。もともと藤堂家から三成を監視すようにいわれていた、いわば忍びだったのだが、三成に惹かれるにつれてその役目を捨ててしまう。そこで司馬が描いたのは戦国時代の「恋」だった。
三成という人物を小説ではなかなかの食わせ物と描いており、人に好かれるような気性ではない。むしろ嫌われ者だ。
家康もその点同じであって、天下を取ろうとする悪党という面が強調されている。
関ケ原とはこの悪党二人のぶつかり合いだった。

原田の映画でも初芽三成は恋人として描かれる。映画は、三成=大一大万大吉=正義であって、その正義が敗れるという悲痛を強調した。故人となった主人の意志を貫こうとして滅びていく三成に哀愁がある。
司馬の原作では、関ヶ原の結果を受けて、300年後に倒幕に動く諸藩の動機にまで言及している。
原田は三成の戦いを赤穂浪士の前哨戦のような敗者への同情という日本人的な感情に集約しようとしている。

さらに、さすがに三成が関ヶ原の戦いの時に下痢腹で奔走していたことはとらなかった。真田丸山本耕史はよく厠に通っていたけどね。

『襲い狂う呪い』<未>(1965)

DIE, MONSTER, DIE
MONSTER OF TERROR
悪霊の棲む館(TV)
上映時間 80分
製作国 イギリス
公開情報 劇場未公開・ビデオ発売
監督: ダニエル・ホラー

原作: H・P・ラヴクラフト

出演: ニック・アダムス 、ボリス・カーロフ

「異次元からの色彩」または「宇宙からの色彩」が原作。「色彩」というのは、光る石のことで、これが隕石であり放射性物質をまき散らし、感染したものは死滅してしまう。人間も動物もかたちが崩れてモンスターと化してしまう。アルドリッチの『キッスで殺せ!』にも似た放射能への恐怖をまともに取り上げた作品だ。かたやSFホラーとして、かたやサスペンスとして出来上がった両作品だが、放射能という未知のものに対する迷信的な恐怖をかたちにするとこうなったという時代性の産物といってもよい。

    


「宇宙からの色彩」は全集だと4巻


『太陽の爪あと』は「閉ざされた部屋」が原作で全集だと1巻

フロム・ビヨンド』は「彼方より」で全集だと4巻

『ネクロノミカン』

『ZONBIO/死霊のしたたり』が「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」の映画化で全集だと5巻

『ヘルハザード/禁断の黙示録』『怪談・呪いの霊魂』の原作が「チャールズ・ウォードの奇妙な事件」全集2巻

『ドゴン』、「インスマウスの影」全集1巻、「ダゴン」全集3巻より

ラブクラフトのダンウィッチの怪』全集5巻