映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『山椒大夫』(1954)

はじめて溝口の『山椒大夫』を見た。
これは森鴎外の描いた説話文学の原作によく似ている。
が、内実は全く違う変貌を見せた。
原作をゆがめているわけではない。
原作の持っている親子愛、別れと再会のドラマの骨格は完全に残している。
だが、原作が潜在的に持っていた民衆の蜂起という社会的なテーマを浮き立たせた。
つまり、溝口作品はクーデター映画なのだった。
その準備を安寿と厨子王の父親の廃嫡を描いたところからおこなった。
鴎外はふたりの父親が筑紫にいるので会いに行くとは書いたが、流謫されたとは明言していない。
いわば単身赴任のように筑紫へ移動され、連絡もなくなったとしている。
そこで4人が旅に出るのだ。
親切を装って4人を人買いにひきわたすのが、映画は巫女だ。鴎外の原作は親切そうな農夫がじぶんの家に泊めるのだ。
女が裏切る方が残酷に見えるから映画は変えたのだろう。効果は抜群だ。
ばあやの姥竹は浪花千恵子だった。原作の姥竹は船から自分で海に身を投げる。その後を追おうとして母は止められ、佐渡に連れられてしまう。
その前に原作は4人とも船に乗せられるのだ。子供たちと大人ふたりと分乗させられる。ところが船の方向が逆だったので大慌てとなり、だまされたことを知るのだ。
映画の安寿と厨子王は船にはのらない。浜辺にいたまま人買いにどつかれて連れ去られるのだ。
そして、原作と映画の大きな違いなのだが、安寿の香川京子の方が妹である。
山椒大夫の屋敷から逃げるときは衝動的だ。森鴎外の姉の安寿は準備を整え時期を待ち、計画的にそれを実行するのだが、映画はたまたま屋敷の囲いの外に出る機会がある、そこで厨子王が思いつくのだ。国分寺まで逃げてかくまってもらえばいいと香川はいうが、どこでその知識を得たかは描かれない。しかし原作の安寿はその情報を着々とあつめ、逃げるタイミングを虎視眈々と計っていた。いわば確信犯であり、入水することもはじめからの予定だった。
しかし映画の香川京子の入水シーンはまことに美しい。『少女ムシェット』 (1967)のラストを髣髴とさせる名シーンだった。むしろブレッソンが溝口を意識したのではなかったか。
宮川一夫の名人芸を堪能できるシーンはあちこちにある。