映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『メイド・イン・USA』(1967)

ホレス・マッコイ『明日に別れの口吻を』をアンナ・カリーナが滞在しているホテルのベッド上で読んでる。

後には別の人物、男が同じ本を読んでいるシーンが出てくるが、『悪党パーカー/死者の遺産』を原作としつつなんということか?

なぜジェームス・キャグニー主演映画の原作が読まれなければならないのか?

しかもパーカーは女なのだ。

アンナなのだ。

死んだ昔の仲間のことを探りにやってきた悪党がパーカーであり、アンナ・カリーナなのだ。

だが、映画の中でアンナの役割はなんだかはっきりしない。

殺し屋なのか、ジャーナリストなのか、革命家なのか。

少なくともそういう類の知り合いはいそうだ。現地にいる医師から死んだ男、殺された男リシャールの検死の模様をさぐったり、現地の刑事とつるんで犯人を探したり、どうもその事件に関わりのあるらしい若い男ドナルド(ジャン=ピエール・レオ)がまとわりついてくるのを害虫よろしく処分したりを動き回る。パーカーが動きまわるのは、自分の身を守るためだった。昔の仲間が殺されたのかどうかもよくわからいまま、パーカーは動き出す。

ところが、映画では男は暗殺されたのであり、なんと殺された男リシャール・ポ・・・は、ポーラすなわちアンナ・カリーナの恋人というではないか。

泊まっているホテルに敵がやってきて格闘になる。これは悪党パーカーシリーズのよくあるオープニングだ。『犯罪組織』でも『弔いの像』でも『汚れた七人』でもそうだった。

やはり『死者の遺産』も例外じゃない。

だから、ポーラの部屋にチビのヤクザが現れる。ポーラは靴を選ぶフリして殴り殺してしまうのだ。まさかパーカーに劣らぬ荒っぽさだ。パーカーでもこんなことはしないぞ。ホテルにやってきたのはティフタスというケチな錠破りだ。ちなみにリシャール・ポ・・・は原作だとシアー、舞台はサガモアだ。ゴダールはこれをアトランティック・シティーに移しているが、セリフはフランス語だ。役者もフランス人ばかり。と思いきや日本人もひとりでている。歌をうたう。ポーラのとなりの部屋にいる作家の妻だ。

作家は未完の小説をタイプで打ち続けている。やがて小説の完成とともにこの世を去る。マリアンヌ・フェイスフルの可憐な美少女ぶりにもびっくりだ。パンクロッカーの面影とは程遠い。

オーソン・ウェルズの オセロ(1952)

THE TRAGEDY OF OTHELLO: THE MOOR OF VENICE
上映時間 94分
製作国 モロッコ
監督: オーソン・ウェルズ
製作: オーソン・ウェルズ
脚本: オーソン・ウェルズ
撮影: アンキーゼ・ブリッツィ G・R・アルド ジョージ・ファント
音楽: アンジェロ・フランチェスコ・ラヴァニーノ
アルベルト・バルベリス
出演: オーソン・ウェルズ  マイケル・マクラマー  ロバート・クート  シュザンヌ・クルーティエ
フェイ・コンプトン  ドリス・ダウリング  マイケル・ローレンス

 

p95
名声なんて、他人が押し付けてくる愚にもつかないまがい物だ、これといった業績がなくてももらえるし、身に覚えがなくても奪われる。
字幕だと「名誉」となっている。
映画は葬列からはじまる。黒く顔の塗ったオーソン・ウェルズのオセロの死に顔がアップで映るとカメラが引いて城塞の上をすすむ葬儀の列。運ばれる棺はやがてふたつになり、デズデモーナが横たわる。横に動く葬列に対して垂直に運動する檻が吊るされて登っていく。囚われたイヤゴーだ。こうして3者を運命を対象させながら物語ははじまる。
まずナレーションでオセロとデズデモーナのなれそめが紹介されて、オセロが公爵やデズデモーナの父ブラバンショーたちの前で自分の魔術について説明する場面だ。オーソン・ウェルズが弁舌をみせつける。魔術とはどうやってデズデモーナ心を奪ったかのいきさつだ。
キプロス島でトルコ軍をたたきのめすシーンは、荒ぶる海岸の描写で示される。遅れて到着したオセロはただちに勝利の無礼講を命じるのだ。

p121
こいつは緑色の目をした化け物です
p156
嫉妬というのは、ひとりで種をはらんでひとりで生まれる化け物です
映画は、ブラバンショーがオセロに対して不信を持っていること、イヤゴーがオセロに恨みを持っていることが原作以上に強調される。
キャシオーの軽薄に乗じて「名誉」をうばうところからイヤゴーの陰謀ははじまる。
街中がお祭り騒ぎにうかれるなかで酒に溺れた末の刃傷沙汰。オセロはキャシオーを罷免する。
イヤゴーはデズデモーナに相談しろとアドバイスする。一方でオセロにはキャシオーとデズデモーナの中が疑わしいと吹き込む。
用意周到である。

p221
これほど愛らしくこれほど致命的な女はいない。泣けてくる。
オセロは死ぬ。ナイフを自らの身体に突き刺し。
その前にデズデモーナの首を締めている。ベッドの上で。ベッドから転がり落ちたデズデモーナは今わの際にまで貞節を示す。
全てを知ったオセロは自らの運命をすべてつつみかくさず公表せよと遺言し、デズデモーナを抱えて倒れる。
オーソン・ウェルズの映像マジックもここで幕を閉じる。

 

松岡和子訳ちくま文庫

『彌勒 MIROKU』(2013)

プロと学生が共同で映画を企画・製作していく“北白川派映画芸術運動”を展開する京都造形芸術大学・映画学科の学生と林海象が協力して完成させた映画。併映の『乙女の祈り』という『日々の泡』にオマージュしたような短編モノクロ映画と合わせると3部作を構成するようだ。第1部「真鍮の砲弾」でエミルは女優だ。エミルの同級生たちのIもNもFもその他もすべて女優だ。少年愛の美学の作者の自伝的な小説を映画化するのに女優で良いのかという疑問は残る。さらには、モノクロ画面でノスタルジックな味の独特な画面を造形する林海象だけに、この写真には色彩が欠けている。というか乏しい。ガラス窓の気泡に入り込む光が反射しておりなす「スペクトラム」が見せる色彩、弥勒像の周りをとびかう電子線(?)の明るい色合い、その2点で突如、色彩がはじけて急に印象を深くする。敢えてそうしたのか。音楽は対照的に全編で鮮烈だ。音楽だけでなく、大人エミルの永瀬が飲む酒のグラスを卓に置く音、グラスにビンから酒をつぐときの音、酒をこぼす音、など音響が鮮明に鳴り響く。


とはいえ、
p238「日本紙のひとたばね」に「赤と青の液を塗る」


同頁「宵闇の街かどの向こうに、柘榴のような赤と、ちょっと譬えようのない透き徹った青緑色のシグナル」


同頁「両頬に赤い丸を描いた孔雀のような女」


p243「媾曳(ランデブー)の赤い靴下だの、真珠のように輝いた太陽だの、仏蘭西の春の平野を舞い上る裏と表を赤と青に塗り分けた単葉飛行機だの、鯖色の半月」


このように色彩であふれているのが肋膜を患った上級生Iが見た「六月の夜の都会の空」ではなかったか。


そもそも忠実に再現したように見える「紙切細工のような都会の夜景」ですら白黒のままではやはり物足りない気がした。


p266「彼の部屋の窓硝子には、注意すると無数の細かな気泡がはいっていた。その中の一つだけ、スペクトラムの作用をする泡があった。それは視線の角度を変えるたびに、こんな美しい色彩が地上に在ったかと思える程な、豪華な赤色や、透き徹った青緑色や取りわけ彼の大好きな、得も云えぬ高踏的なヴィオレットに変化した。」これは断食を続けているのに加え極度の近眼のくせにメガネも失っている主人公の意識に出現するトリップであって、『2001年宇宙の旅』の光のシャワーに先行するイメージだ。これを佐野史郎(Fだろうか?)に見せるのはどうかしていると思う。

「目が覚めると全天が柘榴の実でおおわれていた。薄紫の果粒を透して光が地上に降り注ぐさまは何とも言われない。無数の柘榴のひとつひとつが、おそらくその背後にそれぞれ鉱物質の円光を負っているにちがいない。」これは谷川俊太郎の『空』

 

とにかくポップな色彩感覚にあふれたこの原作を映画化するのは、スタンリー・キューブリックでなければならなかった。もはや故人でありかなわぬというなら大林宣彦が作るべきであった。大林が日本のキューブリックだという意味ではさらさらないのだが。

ゴールデンスランバー(2009)

キル夫(三浦くん)は原作にも登場する。濱田岳よりもっとスマートだが(だと思う)。定禅寺通りで首相凱旋パレードが行われてそこで暗殺されるというのは、原作と違う。教科書倉庫ビルは定禅寺通りではなく、東二番丁通り近くにある。旧電力ビルのナナメ向かい側だ。伊坂は実際の仙台の通りにある実際の倉庫ビルを小説でとりあげた。爆発した森田のワーゲン(原作通りではないと思う)は、原作に従えば東二番丁と交差する広瀬通に止めてあったと思う。そこから裏通りに入って仙台駅の方向に逃げたんだと思う。映画は、森田のワーゲンがその車種、原作通りではないと思うが、後で本ひっくり返して確かめても良いが、どうでもいいか。とにかく定禅寺通りの裏側にワーゲンがあってそこから青柳の堺が逃げるのは原作と違う。また、原作でも連続通り魔殺人の犯人キル夫は確かに登場し、青柳を偶然に(?)助ける。プロデューサーの矢島の放送局は原作じゃ特定してないけど、映画はナマイキTVやってるKHBになってる。面白いね。原作だとキル夫事件捜索のために新型の監視装置が仙台市内いたるところに設置されている。仙台が1984年頃の近未来都市っぽく設定されている。そういう背景が前提にあって首相暗殺のオズワルド化にリアリティを与えたが、映画はそういう七面倒な設定をとっぱずしてしまった。ほかにも大分端折ってるところがあるが、例えば雅春が痴漢をする、してないのにしたと決めつけられる(これも罠、オズワルド化の前哨戦的に)こととか、だが一番大きのはここ、1084年化もっしくは未来世紀ブラジル化、だ。これがないと下水道からの逃亡作戦時に必要な大事な助っ人がひとり欠けるのだが、いいんだろうか。カローラのCMソングは、あんな歌ほんとにあったのだろうか。伊坂はどんな歌詞か教えてくれなかったが。仙台に腕の良い整形外科がいるのは本当だ。依田先生という。しかし、この原作の整形医のモデルということじゃなかろう。立ち小便してて警官にライトで照らされてつかまれる。だが、大外刈でころばして黄色の車の中に縛り上げる。児島さんだ。小島さんは雅春の見方になってくれる。原作にも小島さんはでてくるけど、それはマンションの一室で雅春を見張っている警官だ。そのマンションの部屋というは、宅配配達員だった雅春がよく荷物を届けていたところで、いつも長旅に出ていて留守にしている、でもって鍵の場所まで知っているという設定だ。雅春は一時ここに潜伏している。映画は、キル夫が案内するアパートの部屋をそんな設定に当てていた。ソニンがなつかしい。そういえば、映画じゃ雅春が宅配会社を辞めていることはいってなかった気がする。あ、でも報道の中に元宅配配達員とはいっていたんかも知れぬ。青柳が元同僚の岩崎英二郎を盾にして囲まれた警官隊から逃れるシーンがある。原作では八乙女駅前だったが、KHBのニュースはカモ団地にしていた。実は原作通りだと見通しが良すぎてたぶん逃げにくいと思う。伊坂は駅前からすぐに団地に入り込んで逃げると書いているが、たぶん実際の八乙女駅だと無理だ。だからカモ団地にした映画の方が正しい。

 

■全映画オンライン

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=334768

 

『ハイ-ライズ』J・G・バラード

ドクター・ロバート・ラング
医師、教師、25階に住む。姉が同じマンションに住んでる。独身、離婚歴有り。中流階級代表。姉と女優のエリナ・パウエルの二人の女性の保護者然とした存在にラストは収まる。溺れ死した犬がプールに浮いていたときにその死骸を引き上げる。

リチャード・ワイルダー
テレビ・プロデューサー、下層階の庶民代表。シャーロット・メルヴィルという寡婦の部屋でラングと出くわす。プールで犬を溺れ死させたのはこいつだ。下層対上層の戦いが始まったときに最上階に登頂することに執着し、そこでアンソニー・ロイヤルと出くわして対決となる。2階に住むが、マンションのドキュメンタリー映像を撮影するためにフルチンでマンション内部をうろつき回る。

アンソニー・ロイヤル
マンションの設計者。自ら妻と35階に住む。マンションが荒れ果てて、上層対下層の争いが本格化すると妻とともにマンションを出ていこうとするが、出られずとどまることになる。

こんな物語が映画化される。
監督はデヴィッド・クローネンバーグではない。

『恐るべき子供たち』(1950)LES ENFANTS TERRIBLES

鏡は不吉さの契機。

「鏡が彼女の心を掻き乱した。エリザベートは眼を伏せて、薄気味の悪い手を洗った。」

このマクベス夫人のような冷徹な仕草は、もちろん映画でも表現される。

コクトーがオマージュした『ポールとヴィルジニー』は無辜な男女が世俗の汚れに侵されて死んでいく物語だ。

フランス島という隔離された自然の大地で純粋に育まれた魂がやがて運命の悲劇を迎える。

ジャン・コクトーはポールとエリザベスにもっと残酷な運命を与えるのだ。

ポールとヴィルジニーと違いふたりは孤児だ。

世間から隔離された蚕の繭の中のような部屋でののしりあい傷つけあうのだ。

ポールの同級生ダルジュロスはもっと冷酷で悪の権化のようだ。

雪球を投げ合う雪合戦のイメージではなく、雪を掴んで撒き散らしあいをする。

その中で石詰め雪球を確実に狙い撃ちするのが、ダルジュロスだ。

狙われるのはポール。

その日から、ダルジュロスもポールを学校を遠ざかっていく。

偶然にもダルジュロスと酷似するために一緒に住むようになるのが、アガート。

エリザベスが一念発起して働いて稼ぐためにマネキンになるが、アガートはマネキン仲間であり、しかも孤児なのだ。「コカイン中毒の夫婦のあいだにできた娘だった。」

気性のやさしい友人のジュラールも参加する。

ベスは結婚するが、ミカエルは自動車事故で死んでしまう。

映画ではひとつだけ残った車輪が回り続けている。まるで『激突!』と正反対ではないか!

しかし原作のミカエルはマフラーがきつくからまって窒息死するのだ。

ミカエルは金持ちで、エトワール広場の邸宅をエリザベスたちに遺したのだ。

そこから四人のサンクチュアリ物語がはじまる。

アパートからすこしづつ身の回り品が集められ、ガラクタに囲まれたような状態でポールは寝床の中で過ごす。

その中でポールは我を失い、アガートに恋文を出す。だが、受け取るのは自分だ。

そのためにベスはポールのこころを知ってしまい、そしてまんまとアガートをジュラールと結びつけてしまう。

ベスは自分の罪に耐えられなくなったものか、ラストはピストル自殺という衝撃的な終わりを迎える。

原作のようなダルジュロスの毒玉といったものは出てこない。

 

■全映画オンライン

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=3632

『カラスの親指』(2012)

まず原作について、読書メーター

 

 
「カラスの親指」メイキング&インタビュー集 - YouTube

最初に競馬場でサンタマリアをだます詐欺、ここが原作と違う。

原作だと銀行での詐欺だ。

流れはほぼほぼ同じだが、ディテールが違っている。というか省いてしまっている。

2時間20分に原作のすべて詰め込むのは無理な話だ。

村上ショージの入川が阿部寛の武ちゃんと出会う鍵屋のドア修理のエピソードがない。

原作がそもそもホームドラマめいたゆるい雰囲気に満ち満ちており、それとヤミ金組織と対決するコンゲームの後半との緊張感の対象があるんだが、映画はコンゲームの緊張感も省いてしまった。

ヤミ金をだまして大金せしめるときにやひろまひろの入れ替えトリックを使うわけだが、映画はわかりにくい。

トリックを緻密に描くのではなく人間ドラマにしてしまったのだ。

鶴見辰吾の演技はすごみがあっていいけど、あっさり騙されすぎて拍子抜けだ。

さいごにすべて○○の仕組んだことだと判明するけど、原作がそうなっているので付け足したのかと思えるぐらいあっさりしてしている。

そこから振り返るとまひろがクレープ背広にくっつけて財布スルのを目撃して、それを庇うことで村上ショージ阿部寛と出来上がる関係、それもまた○○の演出というにはなんか無理を感じるのだ。都合良すぎではと思えてくる。

村上ショージヤミ金事務所に盗聴器捜査で踏み込んで、携帯電話に仕掛けられてると指摘するところはいいけど、「あと四台もすべてです」というセリフはやばい気がする。

プリペイド携帯が合計九台というのはどこで知ったのだろうか?

ヤミ金の兄ちゃんに指摘されたらどうするのか?

そこじゃなくて、能年玲奈が若すぎるという間抜けな指摘がはいって、あまちゃん娘がうまく切り抜けるんだけど、まさか本当の娘だったとは!? というのが落ちであった。

能年玲奈はなにかの新人賞をこの映画で獲得しているが、それは納得できるレベルだ。

石原さとみの方がクレジットでは先に出てるし役者としても先輩だけど、むしろ能年を引き立てるような演技でこれもまた好感が持てる。原作だとやひろはあまり存在感がないが、石原はそれにリアルな存在感を与えた。

小柳友の寛太郎は、原作だと奇術師である。時計職人ではなく。原作通りの方が本当はコンゲームに花を添えられると思うのだけど。村上ショージの地元が仙台だという設定、これも原作になかったんじゃないかな。

 

■全映画オンライン

http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=342770