映画とその原作

小説でも詩でもルポでも戯曲でもいいけど原作がある映画とその原作について無駄口をたたく

『にごりえ』1953

樋口一葉の小説がこれほどまでにドラマチックであるとは思わなかった。原作を読み、映像を観て、さらに文章を振り返ってそのことがまざまざと感じられるのだ。貧しくも可憐な明るい久我美子が犯す罪がどのように浄化されるのかこれは今見ても心臓バクバクものなのである。原作でさりげなく最後に記されたその結末も映像では人々の振る舞いを久我の罪からそらすために動かされる。石之助は仲谷昇が演っているのだが、峯の罪をひっかぶった放蕩息子の手並みを鮮やかに演じた。映画は石之助が罪を被ってやったという意図を小説よりも鮮明にしてしかしぼやかすところはぼやかしている。ここのところが絶妙にうまいのだ。そもそもが3本中で原作の流れともっとも変わっているのがこの「大つごもり」なのだ。原作では峯の貧乏と苦労を前半でとことん描写しているのが、映画は華やかな山村家の娘達の着物の買い物風景ではじまる。反物が座敷につぎつぎ広げられるシーンだ。この家の特徴である女主人の吝嗇については、峯と同僚の女中仲間との会話で語られる。さらに女主人のせいで雇い人が居着かないことを久々に帰ってきた石之助と峯との会話が教えてくれる。映画風にドラマを再構築する脚色が輝いている。この脚色は、原作だと話の中でしか登場しない弟の姿を見せたくらいでほぼ原作の筋と同じ流れをたどる「十三夜」と対象的だ。それから「にごりえ」のお初を演じる杉村春子に驚嘆する。杉村の演技の迫力をもっとも感じる映画作品だ。ダメ亭主に発破かけて、挙句の果てに子供を連れて家を出ていくことになるなんともやりきれない宿命の女房でこれこそが狂言回しという役どころだ。杉村がいなかったら、「にごりえ」のドラマの根幹は成り立たないだろう。これは最早心中ものとはいえない。明治の心中とは犯罪であった。江戸時代の情死のような浪漫ちっくなきらびやさはないのだ。

『三十九夜』(1935)と『三十九階段』

THE 39 STEPS

上映時間 88分

製作国 イギリス

初公開年月 1936/03/

リバイバル →ヘラルド-96.5

監督: アルフレッド・ヒッチコック

原作: ジョン・バカン

脚本: チャールズ・ベネット アルマ・レヴィル イアン・ヘイ

撮影: バーナード・ノールズ

音楽: ルイス・レヴィ

出演: ロバート・ドーナット マデリーン・キャロル R・マンハイム ペギー・アシュクロフト マイルズ・メイルソン

 

ミスター・メモリージョン・バカンの原作にはいないキャラクター。

劇場から始まることもないから謎の女とハネイが出くわすこともないのだ。

つまり映画での脚色ということだ。

「三十九階段」という日本語の意味はあいまいでいくつかのことが連想される。

三十九番目の階段でもあるし、階段の三十九段目のことでも通じそうだ。

しかし三十九夜というのはありえないだろう。

日本語のタイトルのみが「夜」であって、映画の会話の中でもちゃんとstepと言っている。

実際のところ「三十九階段」とは、三十九段の階段のある港のことだ。

だが、ヒッチコックはスパイ組織の名前にすり替えている。

もはや階段ではないとばかり、日本語題は夜としたのかもしれない。

三十九夜、つまり一ヶ月以上の逃亡というニュアンス。

実際に逃げていた期間はそんなには長くはない。

その十分の一程度だ。

それからヒッチコックのもうひとつのすり替え。

ハネイの逃亡のきっかけとなった謎の女も原作では男である。逃亡の途中でハネイが出会い、助けの手を伸ばしてくれる人間たちの性別がことごとくすり替えられた。ヒッチコックにとって謎とは女そのものなのだ。

『殿、利息でござる!』(2016)と「穀田屋十三郎」

原作の磯田さんに宮城県の片田舎に埋もれた歴史を掘り起こして欲しいと依頼があり、この原作を書き始めたようだ。
おかげで、映画は宮城出身のスター(?)総動員だ。岩田華怜、千葉雄大羽生結弦本間秋彦…(これだけ)。本当なら竹内結子ではなくて、鈴木京香でなければならなかった。草笛光子の代わりに篠ひろ子だったか?
『無私の日本人』という本来なら無視してもいいような市井の人たちを主人公にした短編集なのかと勘違いしていたのだが、無視じゃなく無私だった。つまり自分の私利私欲や出世欲のためでなく、ひたすらに地域のため、日本のため、世界のために生きた人々の伝記だった。
その中で最長編の「穀田屋十三郎」が原作だ。
いまでも宮城県黒川郡吉岡に「酒の穀田屋」として店舗がある酒屋だ。
この主人公、穀田屋十三郎を阿部サダヲが演じるのだが、原作でははなはだ平凡な人物で、主人公っぽくない。(ちなみにだが、穀田屋以外の2篇の主人公は超絶な天才たちだ)殿様に金を貸して利息をもらうという発想がそもそもこの人じゃなく、相談に行った菅原屋篤平治が考えた。
映画では、瑛太がこれを演じて、居酒屋でふと思いついたように描いているのが嘘っぱちであり菅原家は以前よりこういう発想を考えていて、穀田屋が来た時に頃や良しとそれを打ち明ける。
小説には居酒屋もおかみのときも登場しない。全体的に女っ気が少ないので、補ったわけだ。菅原家の嫁が若いという話も少し出てくるけど、山本舞香を連れてくる場面はない。総じて嫁が姿を現すことは、小説にはない。
その点、映画はドラマの背景を説明する導入部にうまく使った。嫁を馬に乗せて郷里に帰ってきた菅原家は、肝煎の遠藤幾右衛門に馬を取り上げられてしまう。藩に納めるためだ。
ここ吉岡宿には「伝馬役」が課せられて「ふつうの農民のごとく年貢だけではすまない。藩が公用で街道を往来するといって人馬を強制的に徴発していく」と磯田さんは書いている。
これに憂えた阿部は上訴しようと書状を用意していた。その場に居合わせた瑛太はとっさにこれを止める。
阿部が手にした書状を見て、役人が「何か」と問い詰める。
一緒に平伏していた瑛太はとっさに自分の持っていた書状と差し替えるという機転を発揮して危難を逃れるのだ。上訴は死罪に値するからだ。
瑛太、すなわち菅原家はお茶屋だ。これまた現在、「お茶の菅原園」として名を残す。この時は、京の九条関白家から茶のお墨付きをもらったその書状と差し替えたのである。ついでに(京の地の人を)嫁にもらってきたというわけだった。
だがここも原作とはちょっと違っており、東北の茶の権威付けのために「関白家に、この茶を献じてみよう」という念願を語るに過ぎない。
「熊野牛王符」も映画には出てこない。
「菅原家はどこで手に入れたか、熊野牛王符をもっており、十三郎に、それを突き出した」
ナレーションの説明が多すぎるのがこの映画の欠点のひとつなのだが、起請文についてまで説明しはじめるときりがないから採用しなかったのかとも思われる。
ナレーションが濱田岳だ。中村監督+伊坂作品ではよく主役に抜擢されているが、ここでは出番なしなので、この時代劇ではせめて声で攻めるのだった。
三浦屋の鋳銭座と吉岡宿利息チームとの関わりのありかたも原作と違うところだ。原作の十三郎と婿の音右衛門はよそよそしい親子であったが、利息作戦を打ち明けるととたんに打ち解けるのだ。三浦屋が仙台藩から鋳銭をまかされて、音右衛門に座方取締役を頼みたいといってくる。小説では利息チームの活動がはじまったころから鋳銭の話が出てくる。
映画は利息チームの願いが通った後にようやく鋳銭がはじまったような話になる。銭五千ではなく千両にせよと換えられた時にだ。千両だと五千八百貫文になる説明としてだ。これによって甚内はさらに五〇〇貫文追加する。
残りの三〇〇の算段が小説と大きく違ってくる。
まず竹内結子のときが胸を叩く。居酒屋のたまりにたまった付けを集めるのだが、それでも足りぬ。
ここで利息チームの拠出金がいかに大きいかが改めて認識される寸法だ。

『マリー・アントワネット』(2006)

「ガーリーテイスト全開」とか「ポップでおしゃれ」などという賛辞に飾られた批評が目立ったソフィア・コッポラの新しいマリー・アントワネット像だが、今となると惨事、というくらいに忘れ去られてレンタル屋で探すのに苦労するほどだ。


兵どもが夢の跡。


原作とことわっているわけではないがシュテファン・ツヴァイクの伝記を読んでおくと理解が深まる。


キルステン・ダンストマリー・アントワネットを演じることで歴史上の女子が今風に再現されたことは事実。


10代の頃の意気盛んな頃に、必然ともいえる欲望のひとつをシャットアウトされた悲劇の女性。いま考えるとそもそもこんなところだった。止められた欲望の反動が大量消費に活路を見出し、国家的な無駄遣いが自らの破滅につながるという、なんとも明快なロジックでコッポラの娘は攻めきった。その理路整然さ加減がアメリカ映画にふさわしく、ふさわしすぎて注目度は急激枯渇という次第だったか。小気味いいといえばいえるのだが、マリー・ダンストが味わった孤独の要因たる夫の性的な無関心について、決して明確ではない。そのあたりは女性としての恥じらいがあったのか、はっきり語られなかった、でもツヴァイクを当たった我々ならばそれははっきりしている。ルイ16世は決して不能者ではない。映画でもふたりの間に子を設けて不倫の子ではないのだから、不能でないことはわかると思う。


いい若い者のくせに女との性交に関心がないという、かといってホモでもなさそうととにかく無気力な意気消沈男とだけ描かれた。


彼が包茎であったことは語られない。それもただの皮カムリではなくてカントン包茎という一種の奇形であり、勃起によって苦痛を生じるという深刻な症状を呈するものだ。
マリーも可愛そうだが、ルイ16世もまことに気の毒な境遇にあった。


だから、sexしようとして痛がるくらいの描写があってもよかったのだ。
この痛みをルイは婚姻後3年程も我慢する。手術を嫌がっていただけだけど。当時からカントン包茎は手術で克服できることが知られていたのだ。


ヨーゼフ2世がやってきて、ルイを説得する画面がある。ここもソフィアの描き方は判然としない。


映画では精神的に鼓舞するばかり。
だが実際は、ヨーゼフはルイに手術を受けるように説得に来たのだ。


政略結婚のふたりの間に子がないとは国家間においても重大な問題だからだ。
マリーの母マリア・テレジアも手紙で何度も愛娘を鼓舞している。


そもマリア・テレジア肖像画そっくりで驚いたのだが、演じているのがマリアンヌ・フェイスフルというのでもっと驚いた。実はここがこの映画一番の歓喜であった。皮ジャン脱いだマリアンヌがルネサンス装束でオーストリア女王とは、なんとも粋である。
もひとつ、ツヴァイクからの受け売りで比較するとフェルゼン伯爵はマリーを弄んだただのゲス男ではない。ふたりの間には純愛とでもいうべき絆があり、パリに連行された後も、失敗したとはいえ逃亡計画ヴァレンヌ事件の手引をした中心人物も彼であった。(もっともフェルゼンには他にも愛人がいたことも知られている。)

『フィッシュストーリー』(2009)


伊坂作品はどんどん映画化されるが、いまだにこれといったものがない。韓国版の『ゴールデンスランバー』(2018)に期待するか。

 

原作をどう生かすか、どう理解しているかのバロメーターが映画オリジナルのストーリーやら演出となって表れる。(のだろうか?)

 

2012年、巨大彗星の衝突が間近に迫る地球、日本のとある都市の片隅。石丸謙二郎電動車いすころがして、ゴミだらけのアスファルトの道を散策している。とあるレコードショップが営業中であることに目を留めて、そこに入っていく。とそこにいるのが、店長の大森南朋。(あとも一人、客の若い男)かけるレコードが逆鱗の「フィッシュストーリー」と、こんなシーンは伊坂の小説にはない。

 

伊坂の小説は、山形と仙台がメインの舞台。映画は特にことわりはないのだが、山形から仙台に抜ける道路を濱田岳その他は通って合コン会場に向かったと思われる。
合コン会場は、たぶんだが、仙台市泉区にあるイタリアン・レストランだ。
合コン相手のひとり予言少女を演じた高橋真唯は今は岩井堂聖子と称しているようだ。この予言少女、原作にはいない人物。

 

彗星衝突に逃げない3人組の芝居、濱田岳一行の合コン男3人組の芝居、ともにぎこちなくて見ていられないのだが、これらのシーンは原作にはない。
あるのは、合コン帰りに「フィッシュストーリー」を聞きながら強姦の現場に出くわして女性を助けるところ。

 

合コンから強姦へとはつまらないつながりをつけたもんだが、強姦男が滝藤賢一だ。
滝藤賢一は『ゴールデンスランバー』(2009)にもちょい役で出ていたな。

 

天才計算少女、多部未華子の登場でようやく役者らしい役者が出てきたとほっとした。
本当はシージャックじゃなくてハイジャックでいきたいところだった。ジャック犯をやっつける正義の味方については原作にもあるけど森山未來みたいなコックじゃなくて、麻子(多部)と飛行機に隣り合わせたガタイの大きな男だ。森山みたいにきゃしゃじゃなく、マッチョな男だ。

 

麻子はそこで小説を開いている。そこにフィッシュストーリーの歌詞としてパクられる下りが書いてある。麻子が読んでいるのをみて、自分も好きな小説だと声をかけるのだ。

 

つまり、小説の中の小説は、映画のような幻の翻訳本ではないのだ。パクリで歌詞作っちゃさすがにまずいというのでここはアレンジしたのだろう。

 

逆鱗というバンド名も映画オリジナルだったと思うが、レコーディングの下りはほぼ原作通り。

 

ただし、江口のりこみたいな居眠りはいねー。江口はセリフなんかなくてなんにも言わねー。
江口のりこの破壊力はこんなちょい役でも十分に発揮されてて、おかげで彗星による地球消滅も必要なくなったとばかりに、多部の計算が地球を救うのだ。
ついでに多部もよく眠る。

『ミッドナイト・ミート・トレイン』<未>(2008)

原作: クライヴ・バーカー

監督: 北村龍平

 

原作の翻訳が集英社文庫で出たのが1987/1だからせめて20世紀のうちに映画化していたら日本での劇場公開もあたかもしれない。

北村にしたら抑え気味の演出ながらみせるべきところは見せる正統スプラッタホラーの凡作に仕上がった。。

原作が短編なので長編映画にするために要素をかなり付加して、事件の目撃者を新鋭カメラマンに設定している。

これはいわゆる継承ものホラーに属する。『サスペリア』『へレディタリー』の系列に属する映画だ。

ニューヨークの裏側をショットで切り取ることをテーマとするカメラマンのレオンは、地下鉄の入り口のところで人気モデル(ブルック・シールズ)が暴漢たちに襲われているところを写真に撮ることに成功する。

ついでにレオン(ブラッドリー・クーパー)は暴漢たちに監視カメラの存在を示唆することで暴行を止め、モデルの女性を救い出すことができた。

ところが翌日の新聞に、このモデルが行方不明になったと掲載されるのだ。
不審に感じたレオンは翌深夜、地下鉄に乗り、そこで凄惨な殺人現場に遭遇するのだ。
殺人者は肉屋が使うハンマーで乗客を次々殴り倒して衣服を剥ぎ取って、牛の枝肉みたいにつり革のポールに鉤爪に逆さ吊りしていくのだ。その作業は手際よく職人技である。

この死体は、ニューヨークの街の地下に棲む始祖たちの餌となることが原作では説明されるけれど、映画では詳しい説明は省かれる。ただ、不気味な死体喰いモンスターがちらりと出てくるだけだ。

この始祖に食料を届ける屠殺人は一見、ビジネスマン風だ。ブリーフケースを持ち、そこから肉ハンマーを取り出す。

後頭部をぶんなぐると勢いで目玉が飛び出すほどだ。
死体処理のためにも目玉をくり抜く描写があり、まさに目玉づくし。
屠殺人はホテルに住み、時折、鏡を観ながら胸にできた腫瘍をナイフで毟り取って瓶にいれて保管している。こんな描写は原作にはない。それから食肉工場で働く男の姿も原作にはない。

この男は100年以上も前から始祖のための殺戮を繰り返していた。だいぶ消耗していて体がもたなくなりつつある様子を見せる。

原作にはマホガニーとカウフマンというふたりの男が登場する。
アトランタからニューヨークに出てきて20年も経つ小男のカウフマンの職業は定かではなく恋人もいない。彼が地下鉄でマホガニーの殺戮現場に遭遇するのだ。

「よく見ると、そんなに恐ろしい男でもないようだった。禿げかけた五十がらみの男。どこにでもいるような肥満体の中年男だ。物憂げな表情、落ちくぼんだ目。口は小さく、繊細そうな唇をしている。」(宮脇孝雄訳)

映画の殺人鬼は、唇以外は原作のイメージとは違っている。
原作の殺戮シーンは事細かに念入りに(つまりグロテスクを追求して)描かれる。食用動物を屠殺して加工する手順を人体に当てはめて作業が行われる。剃毛とか血抜きとかの手順を怠らず食用(?)として整えるという悪趣味を貫くのだが、映画の描写は必ずしもそうではない。

屠殺男が奪ったレオンのカメラを取り返すべくホテルの部屋に侵入するのが恋人と友人なのだが、見つかって恋人は命からがら逃れるも友人は捕らえられてしまう。そして地下鉄のポールに他の死体と一緒に逆さ吊りされる。その時、頭髪はそのままだし第一生きたままだ。レオンが殺人鬼と格闘する時に大鉈で切り裂かれ血まみれで息絶えるが、別に人質という風でもなく生きたまま吊り下げるとはルール違反というものだ。

ここで思い出すのが『ホステル2』のバートリ・エルジェべト風の拷問で殺される女子大生だ。手足縛られ、やはり逆さ吊りに天井からぶら下げられる。その下の浴槽に全裸になって横たわるのが、この娘をオークションで競り落とした女主人。鎌を使って娘の体を切り裂き、滴り落ちる血を体に受けて恍惚となる。

 

真田風雲録(1963)

監督:加藤泰

原作:福田善之

 

脚本に原作者福田善之も加わっているけど、かならずしも原作通りの筋書きで映画化はされていない。
主演が中村錦之助だけに、佐助=主人公で活躍する場を多く設けている。
原作戯曲がそもそもそうだが、『信長協奏曲』や『真田丸』みたいな現代語でしゃべる時代劇の先駆的映像作品といっていいのでは。ミュージカルであることもポイントだ。ミッキー・カーチスにぎたあるを持たせて弾き語りさせたり、戦勝祝に踊り騒ぐなど音楽的要素は原作からふんだんに取り入れられた。
千姫もドレス姿で秀頼と踊る。
佐助が超能力を持っていて戦闘その他で大活躍するところ、映画ならではの特殊撮影やクローズアップを駆使している。
加藤泰の演出のスタイルがこうまで嵌まるとは意外ともいえる収穫だった。
原作戯曲の持つ主題(学生運動とか、時代劇とミュージカルのミスマッチとか)と加藤泰のスタイルが一見、相反するように感じられていたとしたら、それは偏見だったかも知れない。
原作通り描かれるシーンはある。
例えば、
第二 雲の巻 その二 真田隊抜けがけ波瀾を生む事
真田十勇士の戦いで徳川軍を分裂に導く成果を上げるも、有楽斎は評価せず恩賞も与えない。だが、この前映画で真田隊の進軍を阻むのは服部半蔵と忍者部隊だが、戯曲では「大久保彦左衛門をはじめとする徳川親衛隊」だ。
佐助がラストで服部半蔵と一騎打ちするのだが、戯曲に半蔵は登場しないので映画独自の登場人物となる。
戯曲では真田丸で宴会のシーンがあるが、映画にはこの出城は省略されている。
第三 炎の巻の「その三 大野修理なお策をたてる事」~「その六 その翌日の事」までは戯曲の流れを順当に踏んでいるものの、セリフは多く刈り込まれて、さらに佐助と半蔵との対決を織り込んでいる。
しかし、ラストで荒野を歩く佐助の俯瞰シーンでは「佐助のテーマ」を独唱するのだ。
千姫を救って江戸に連れて行く(渡辺美佐子のお霧も)坂崎出羽守が田中邦衛